私を私たらしめているもの(九鬼周造『偶然性の問題』余滴)

 私を構成するものの中で「私らしいもの」と「そうではないもの」をどのように分けたら良いのでしょうか。たとえば私は文章を書くのに、キングジム社のポメラを使っています。文章を書く機能だけ持たされたワープロです。これは私らしいのか、それともこれがここにあることは偶然なのか?そのことを考えることは難しいことであるように思われます。それを問うためには、どのような問いを自分に対して立てれば良いのでしょうか?
 「これは替えのきくものですか」という問いに対しては、「使い心地は替えることはできません」と答えるでしょう。文章を書くという行為はノートでもスマホでもパソコンでもできますし、パソコンの方がたくさんの機能を持たされていて便利かもしれません。しかしながら、この軽さと、集中の続き方と、縦書き原稿用紙にワンタッチで切り替えることが出来ることと、親指シフト専用のキーボード(入力方式の一つ)は、パソコンで行うのとは少し違う、ポメラだけの使い心地であるように思われます。
 そこで、「その使い心地を使えなければあなたではないのですか」という問いを新たに立ててみます。それもとても難しい問いであるように感じます。これを使わなくても私は私のままでしょうが(消えたりはしないのでしょうが)、これを使わない生活を考えることはもうできません。「これを使える私でありたいのです」と答えたいような気がします。そう答えることは、「何が私を私たらしめているのですか」という質問に対して、「私が何をしたくて、それに何が必要なのか」という風に、「意志」という切り口を持って答えることになっていると思います。他の切り口もあるのでしょうが。
 そうすると、「あなたがそうありたいと思うその意志は、あなたをあなたたらしめているものですか」という問いが考えられます。難しい問題です。

 春の足音が聞こえる今日この頃ですが、「何が私を私たらしめているのか」と考えると、少なくとも通勤電車の片道くらいは時間がつぶせると思いました。