古文の勉強について①

「古文は何のために学習するのか」と言われた時にどう答えたらいいのか考えてみたいと思います。


まず、「意味があるのか」と言われた場合は、その「意味」とは何なのでしょうか。数学を学べば例えばバイクのエンジンの設計ができるかもしれません。そのバイクを使えば、例えば滋賀県の琵琶湖に行けます。琵琶湖に行きたい人からすれば、数学の勉強は「意味がある」のでしょうか。しかし、数学を学ばなくてもバイクに乗れば(そして免許さえあれば)琵琶湖に行くことが出来ます。電車に乗るとか、自転車で行くとかいう手もあります。


古文の学習の場合、ある程度学習すればいろんな時代の琵琶湖に行くことが出来ます。もちろん頭の中でですが。そういう意味では意味があるのでしょうか。


しかし、琵琶湖に興味ばない人にとっては意味がないという事になるのでしょうか。考えて行けば分からなくなってきました。


思ったこととしては、「役に立つか、役に立たないか」というのは「その人にとって」役に立つのかどうか、という問いになるのではないかという事です。だとすると、古文を学習して役に立つのかと言われれば、「あなたが、古文を読みたいと思うのなら」役に立つということになるのではないでしょうか。逆に聞きたいのですが、あなたは古文が読みたいですか?


学校で古文を勉強するという事の中には、学校で古文の面白さを伝えることが含まれていなければならないのではないかと思います。そしてその面白さを伝える「責任」は(責任というのも変な言い方かもしれませんが)教える側にあるのではないかと思います。ただし、「面白いか、面白くないか」という考え方にも問題があります。同じ内容の授業でも「面白い」と思う人もいれば、「面白くない」と思うかもしれないからです。受け手の好みの問題も多分に含まれるように思います。


そうすると、「面白いと思った人は勉強すればいいし、そうでないと思った人は今面白いことをすればいいよ!」と答えたくなります。これが一番角が立たない答えなのでしょう。しかし実際に答えると高校生から張り倒されるような気がします。なぜなら大学受験をする高校生は、古文を答えなければ(おそらく)大学に入れないからです。


そうすると、高校生にとって古文は「大学に入るために」役に立つということになります。そして古文が楽しくない高校生にとっては、古文は「したくないこと」に入るため、「なるべく短い時間でテストで点が取れるような時間」が有意義な時間になるのでしょうか。しかし、その時間は、「私にとっては」虚しい時間に感じてしまいます。もし私と同じように、古文が役に立つ高校生の中で、古文が楽しくなく、効率のいい方法を必要としながらも、そういう効率のいい勉強法も空虚に感じてしまう高校生がいれば、その人はどうしたらいいのでしょうか。これからこのブログで考えてみたいと思います。