静かに暮らしたい(土門拳『古寺を訪ねて 京・洛北から宇治へ』)

 西芳寺苔寺)に関わりある夢窓禅師について、植物に近い人間であったと紹介されていた。そしてその植物的な境地と関わりがあるのだとして、美しい苔の写真が載せられていた。自分を小さくして、その上に丸まって暮らしたいと思うくらいに美しかった。

 植物的な境地とはどのようなものなのか。まず想起されるのは、あまり動かないような人柄である。それに対して私は毎日バタバタと動いている。それはなぜか。それは、色々な欲しいものがあるからである。欲しいものがあるから働き、その分の支払いをするために時間を切り詰めて行く。そうすると余計に疲れて、余計に消費し、余計に働かないといけなくなる。そのような循環の速度によってばたばたとした日と、落ち着いた日の違いが生まれているのではないだろうか。そしてその循環は、急に止めることは出来ないものであるように思う。

 それに対して植物は、簡単に考えると、水と光を得ることに集中しているように(今の私には)見える。足るを知っているのだろう。逆に私は、足るを知らないのだろう。

 それは何故だろうか。何故、今の暮らしに満足をすることが出来ないのだろうか。欲しいものを検索してはため息をつくような生活を何故送っているのだろう。一つには、そういう風な消費を促すような仕組みが出来ているからであるように思う。自分に合わせて表示されるウェブの広告がそうである。それはどうやったら表示されなくなるのか。極論を言えば、ネットショッピングをしなければ表示されなくなっていくのかもしれない。他にもやり方があるのかもしれない。

 私があるものを欲しくなっていくプロセスはだいたいこうである。まず、広告を見て、ある商品の存在を知り、その名前を覚える。すると周りにその名前のものを使っている人が目につくようになる。名前を知っていたら検索をかけることが出来る。検索をかけると、その商品のレビューを見ることが出来るが、そこに書かれている情報は「私がそれを買わなければいけない理由」である。「商品の名前」に「買う理由」がどんどんと結びついて行ったときに、欲しいという状態が生まれる。私の中では最近はこのようにして「欲しい」という気持ちが生まれているように思う。

 それを断ち切ろうと考えるならば、私はどのようにすればよいのだろう。また、私がそれを断ち切らなければいけない理由は何なのだろう。以上の2つを、通勤時間に10分でも考えたらよいのではないかと、そう思いました。