古文の勉強について②

私は何故だか分かりませんが、古典が好きです。例えば学校で買った『万葉集』を一冊開きます。そこには現代語訳も、一つの語釈も載っていません。そこに「この本にはこの字で書いてあるけど、別の本には違う字で書いてあるんだよ」という事を教えてくれる本を開き、そこに該当する個所に印を付けていきます。次に鎌倉時代、江戸時代、そして現代の万葉集の注釈書を五冊開き、一冊ずつ注を読んで、面白いと思ったところを書き写していきます。そうすると大体三十分で歌を5つくらい読むことが出来、本が黒くなります。


それで起こることは、社会的に何かの「役に立つ」という事では決してないと思います。その行為が何かの呪術的な力を持っているなら別ですが…しかし、私は何故だか分かりませんが、その行為が好きです。気分としては、私は動画でしか見たことはありませんが、焚火を見てホッとするような気分に近いような気がします。焚火と違ってあったまることも、分厚い肉を焼くことも出来ません(そもそも、私は分厚い肉が買えません)。焚火の場合は、焔の揺らぎを見ると人は先天的に落ち着くと聞いたことがあります。私の作業の場合は、昔の人から今に至るまで、どれくらい多くの人が例えば『万葉集』を楽しみ、読んできたのかが分かるという点が、考えてみたら楽しい点なのだろうと思います。もちろん歌自体も面白いのですが。


私はいつからこういう感じになったのでしょう。高校生の時は普通に問題集を解き、古文の単語帳を開き、文法のワークシートを解いていたような気がします。その作業があったから今の「焚火遊び」が出来るようになったような気がします。しかしながら、「将来「焚火遊び」が出来るようになるよ!だから今は頑張って!」とはとても言えません。大体のところ、上に書いたことを読んで楽しそうだと思う人が一人でもいるかどうか、私には分かっていません。それは私の書き方の問題もあるかと思います。読む方の好みの問題もあるかと思います。或いは、日ごろの暮らしが忙しくて、そんな暇なことしてられないわという方もおられると思います。高校生もそうだと思います。


では、高校生にはどのような言葉をもって、「古文を何故学ぶのか」という問に対して答えたらよいのでしょう…途方に暮れますが一つ思う事としては、「読めるに越したことはない」という事です。


例えば、物を書く時にはよほどのことがない限り、それまでに読んだものからの影響を受けます。『鬼滅の刃』を面白いと思った時に、「では、結局『鬼滅の刃』を『鬼滅の刃』たらしめているオリジナルの部分はどこなのだろう?」ということを知りたいと思ったとします。(思わないこともあり得ます)その時には、それが影響を受けていると思われる(どうやって探すかは今は考えないことにします)昔の作品を探していきます。すると、その話はまた、もっと昔の作品から影響を受けています。

 

そのようにどんどんとさかのぼっていくと、そのうちに言葉はどんどん古くなっていって、「古文」と呼ばれる作品に入っていくことに(理論的には)なります。そうして「鬼」の話を調べていくと、「鬼」が説話の中では出生時に家族から疎外された存在として書かれるという類型があることに気付いたとします。そうすると、『鬼滅の刃』の中では鬼殺隊は家族を鬼に殺された集団だけど、その鬼も家族から疎外された存在で、どっちも構造としては似ているなあ。そして、そのよく似ている両者が戦っているんだなあ。最後の方で「どちらが鬼かわからない」状態になるのは、その意味では当然なのかもしれないなあ。『鬼滅の刃』の終わりは、その戦いの連鎖の元凶を断つことにしかなりえないのも、しかたないかもなあ。」なんていう考えに至ったとします。

 

上は私の思いつきで、冷静に考えたらいろいろとおかしい点もあるのですが、要は昔の作品のイメージと比べることで、作者のオリジナルな点(らしきもの)が見えることがあるということです。(『鬼滅の刃』の場合はそういう構成の妙と目の付け所が大変おもしろいと思いました。)そういう事を考えてにやにやしたい高校生は古文を勉強したらいいと思います。そうでない(大半の)高校生にどう言えばいいのかは、また考えたいと思います。