感覚が違うわたしたち(九鬼周造『偶然性の問題』余滴)

視覚が不自由になった場合、私たちは眠りについたときに、どのような夢を見るのでしょうか。『偶然性の問題』には「聴覚的内容が多い」と書いてありました。

 それはどのような感覚なのでしょうか。夢で見る事は、起きている間に見たことについての反復に基づいて再構成されると考えると、今見ているものとの間には類似点があるはずです。そこで、例えば新幹線の中で目を閉じると、キーボードの音が聞こえてきます。「ああ、あれはレッツノートみたいなキーボードの音だな」なんて、そんなことを考えていたりします。そういうことを考えるのは、私の興味や思考の形式によるところもあるのかもしれません。(一時期レッツノートのキーボードの操作性に興味津々でした)

 「自分の感覚に基づいて自分の興味が絞られていくのか、それとも自分の興味に基づいて自分の感覚できるものが決まっていくのか。」ということについて考えてみてもいいかもしれません。またそういう風に簡単に二分できるのかどうかについても考える必要があるのでしょう。例えばおいしい居酒屋は、お客様の細やかなニーズを察知し、心配りをしてくれるものです。そのお客様の細かいニーズを察知することが出来るかどうかという点が、明暗を分けることもあるのでしょう。そのことについて考えるのならば、「お客様の反応への興味」から「反応への感覚」が養われる部分もあり、それは内因的な要因とよるとも考えることが出来るかもしれません。

 しかしそもそも目をつぶった状態では視覚的情報を察知することは難しいはずです。感覚が物理的システムによるものであるとすると、そこには外部からの干渉の余地があり、外因的な要因が発生するでしょう。

 そのように、どちらか一方から一方という風に原因と結果を考える事は難しいのだと思います。ただし、どちらにせよ考えなければならないことは、感覚が違えば、そこから感知されるものも違うということです。同じものを「見て」も、その感覚は違います。それは私とあなたとの断絶です。その間を言葉でどれほど埋める事ができるのでしょう。相手が見る夢について、私たちは考える事が出来るのでしょうか。分かり合うことは出来るのでしょうか。そのことについて、通勤時間に10分だけでも考えてみてもいいかもしれないと、そう思いました。