筆の向くままのただの雑記

「休みの日という事で、昼からシャワーを浴びました。
私の家の風呂には西向きの窓が付いていて(代わりに換気扇が無い)、午後には自然光が差し込みます。
その状態でシャワーを浴びると、光に照らされた水玉が輪郭までくっきりと、虹色に光って、驚きました。
シャワーヘッドからぴっしりと引かれた曲線が降りてきて髪に当たります。髪に当たった水は何本かの筋を作って、前髪を伝って太くねじれて落ちていきます。その水同士が重なって一本にまとまっていきますが、その辺りは吸い込まれそうに透明になっています。
筋にならなかった水滴は頭から反射して、比較的等間隔にぱらぱらと落ちていきます。水は上から下に落ちていくはずなのですが、ずっと下向きの流れを見ているといつしか反転して見え、まるで上に立ち上っていく水泡とすれ違い続けながら海底に降りていくような気持になりました。
さらに、肌に当たった水はより細かい霧となり、西日をより際立てます。」

うーん、難しい…
昼にシャワーに入った発見を伝えようという意図だったのですが、おそらく伝わっていないのではないかと思います。改めて見ると、「ぴっしりと引かれた曲線」とか「吸い込まれそうな透明さ」とか「水滴と霧と筋は何が違うのか」とか、伝わってないのではないでしょうか…

例えばこれに絵が付いていたら、その絵を指して「これがそれだよ」と言うことが出来ます。文章にした場合は自分と相手の間に言葉が立って、相手の言葉に対する考え方や感じ方をもって、そしてその言葉がどんな状況で使われているのかを考えて、理解されていきます。なので、自分の頭の中のものを伝えるには、それぞれの言葉に対する考え方と感じ方が重なっていないといけません。

そして、文章にする場合はまず相手に読んでもらわなければいけません。そのためには相手が読みたいものは何かを考えなければなりませんが、上の文章は完全に思い付きで、気の向くまま書いたものです。しかし、自分が選択できる語彙が限られている(言葉を知らない)ためになかなか筆が進みません。

逆に読む時は、相手の言葉をまず知っていなければならず、しかも相手がどのような意味で言葉を使っているのかを考えなければなりません。書かれたものは時を超えるために、昔の人の言葉に接することが出来ますが、時間が経てばたつほど言葉は縁遠いものに変わっていきます。

「漫画だったら分かるのにな」とか思う時もありますが、しかし考えようによっては、難しいという事は完全に分からなくても仕方がないということでもあります。相手と自分の脳を通信ケーブルでつなぐわけではないので、相手と自分のイメージが多少ずれるのは仕方がないのでしょう。そういうことを理解した上で、言葉を編んで文章にして放り込みます。その放り込まれたものは場所も時間も越えて、不特定多数の人に届き、それぞれが自分の語彙と想像力で自分の意味に落とし込んでいきます。そしてそこからまた新しい言葉が生まれます。

想像力が入り込む余地は漫画より活字の方が多いのではないでしょうか。この繋がってるような繋がってないような感覚と言うのは、パーソナルな部分が多いというか、半個室みたいな感じです。その空間にはその空間なりの良さがあるなあと、そう思いました。