飛行機よりもタケコプター?(J・G・フレイザー『初版 金枝篇 上』

 フレイザーの『金枝篇』(19世紀末から20世紀の人類学の本)を10分だけ読みました。昔の人にとって、神の力を得たと考えられた人は「奇跡」を起こす人物であったと書かれていました。そしてその人が起こす(と考えられていたこと)が自然の法則と異なることであったとしても、それを法則への侵害とは見なすことは無かったと書かれていました。(そういう法則に対する認識が薄かったのではないかと考えられていました。)
 それが現在でもはっきり残っているのはフィクションの世界でしょう。その中では「奇跡」が起こります。自然法則というか、物の理みたいなものに反する出来事が起こります。野球だったら剛速球を投げるヒーローが弱小校に居て、強豪校を激闘の末に破ります。主人公が格上の相手と闘って、突然神がかった活躍をしてそれを破ります。
 そして私たちはそれを見て喜びます。それはなぜでしょうか。そこから考えますと、私たちは「奇跡」を見たいと心のどこかで思っているのだと思われます。それはなぜでしょう。それは、おそらく現実には、そのようなことはなかなか起こらないからなのでしょう。物にはそれなりに理があり、その理に従って物事は進んでいきます。人の話で言うと、例えば役所で手続きをするにはしっかりと手順をふまなければいけません。自然の話で言うと、例えば、人はなかなか飛びません。人を飛ばそうと思うとそれはもう大変だったのでしょう。今も大変なのでしょう。だからフランスまで行こうとすると何十万円とかかるのでしょう。それを分かっているからこそ、そういう物の理に反する出来事が見たくなるような心理が私たちにはあるのかもしれません。

 そして人が飛べるようになったとしても、実際に飛ぶ人は限られていますし、高いお金を出して飛行機に乗りたいと思うかはまた別のことです。飛行機よりもタケコプターの方が、「飛びたい」という私たちの欲求に忠実だったりもするのかもしれません。ただし、大谷翔平さんのようにそれを現実に変えてしまう様子を見ていると本当にワクワクしますが。
 最近見た楽しかったフィクションについて、なぜ自分はこれに喜んだのかと、自分に問いかけてみてもいいかもしれません。ありがとうございました。

スティーブ・ジョブズの言葉を知っていたから(『曽我物語』)

曽我物語』巻七「千草の花見し事」を十分だけ読みました。時は鎌倉時代、兄弟が親の仇討ちにこれから向かうという場面です。その仇討ちが成功した場合にも、その罪で私たち兄弟は殺されてしまうだろう、ということを考えながら、庭に咲く植物を見て、それを見るのも最後だろうと別れを惜しむ場面でした。
 「もしこの時が最後の瞬間だと言うことが分かっていれば、景色はどういう風に見えるのだろう、私は何を考えるだろう」ということを考えさせられました。私の前には(物理的に・比喩ではなく)砂時計が置かれてあります。(時間を管理する用途で使っています。)それを見ていても思うのですが、時間は今この時にも過ぎていっています。では、明日には私がここにいることが出来ないとしたら、今何を考えるでしょうか。
 例えばお天道様との別れを惜しむでしょうか。これまで何度も見てきた空ですが、もう一度見たいと思うでしょうか。どちらかと言うと、海はもう一度見たいともしかしたら思うかもしれません。日の光を浴びながら海岸線を自由に散歩してみたいと思うかもしれません。もしくは、身の回りにあるちょっとしたものが愛おしく感じるかもしれません。
 それよりは、出来ることなら残される人の気持ちを慮ることの出来る人になりたいと思います。私が居なくなったら、私の周りの人はどう思うのでしょうか。改めて、私の周りの人たちにはなるべく優しく接したいと、そう思います。
 しかし実際には、そんな風にあらかじめ心の準備が出来る訳ではなく、突然私は居なくならないといけないのでしょう。そう思うと焦ります。
 テーマが大きすぎたため、正直なところ実感を持って書くことは出来ませんでした。ただし、それくらい私はいつも当たり前のように生きてきていたということを実感することは出来ました。今の暮らしがいつまで続くのかは誰にも分かりません。だとすると、常に「今日が最後だったらどうしよう」という問いを忘れてはならないのでしょう。自己啓発本みたいな結論になりましたが、『曽我物語』を少し読んでみて、そう思いました。
 皆様も通勤時間にでも、「もし今日が最後だったら自分は何を考えるか」について考えてみられてはいかがでしょうか。読んで頂きありがとうございました。

 

籠の中の鳥(『源氏物語』紫上)

源氏物語』「紫上」の一部を5分ほど読みました。紫の上は源氏物語のヒロインの一人です。篭に捕らえて飼っていた雀の子を別の子どもに逃がされて泣いているのが彼女の第一声でした。ざっくりと言って、女性の自立が今よりも難しかった上に、源氏に振り回され、思い乱されたという紫の上のキャラクターを考えますと、篭にとらわれた小鳥と源氏の妻としての彼女はどこか重なるように思え、考えさせられました。
 私もまた色々なものに捕らわれているように感じます。例えば、(言っても仕方ありませんが)期限までにしなければいけない仕事に捕らわれています。そもそもお金を稼ぐためには、決められた時間に決められた場所に居なければなりません。(当たり前ですが)それを考えますと、私もまたその小鳥と大差ないのではないかと思います。
 それでは篭の外から出たらどうなるでしょう。自給自足で生きていかないといけません。それが私にできるでしょうか。木の実を集めるくらいならできるかもしれませんが、電気やガスの無い暮らしを今から送ることは躊躇されます。ちょっと私には、町の外で生きていくビジョンは今のところ見えません。
 自給自足が出来ない人間が生きていくための、助け合いの結果として、お金を得るための仕事があるのでしょう。しかしながら、人と生きることを決めた時点で、色々なものに縛られていくことになります。そういう宿命なのでしょう。
 だとすると、助け合いの心を持たないと行けないのだと思います。そもそも私が縛られている理由は、一人で生きていけないからであるため、誰かに助けて貰わないと社会で生きているメリットがあまりないということになるからです。そして、誰かに助けて貰うためには、誰かを助ける気持ちを持たないといけないからです。
 朝は眠たいですが、電気と水道とガスを享受するために今日も捕らわれようと、そう思いました。なぜ自分が社会で働いているのか、通勤時間にスマホを見る代わりに考えてみてはいかがかと、そう思いました。

「なぜ私はここにいるんでしょう」(村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』)

 60歳を過ぎてから親の過去について振り返られておりました。この本を読んで、「なぜここに私がいるのだろう。」ということを考えました。もう少し詳しく言うと、「なぜ父と母は出会ったのだろう」ということです。

 私の父から聞いた話によると、私のひいおじいちゃんは船を持って居て、オリンピックが開けるような家に住んでいたのだけれど、戦争のごたごたで船を失ってから没落して、山小屋に住んでいたということです。(全く信じてはおりませんが)私のおじいちゃんはそれで山小屋に長い間住んでいたので、スズメバチ素手で捕まえることも出来るし、外での遊びにはとても馴れていたそうです。(これは本当です)また父の地元にはその苗字の名を冠した橋や石碑が立っているみたいです。(これも本当です)

 また、私の父の母は満州から引き上げて来たそうです。そんな私の父の父と母が戦後のごたごたの間に出会い、結婚した結果として父がおり、その結果私がいるということでした。「戦争」は意外に身近なところにあったのだなと改めて思いました。

 なぜ私はここにいるのでしょうか。それは偶然でしょう。私が居なかったら、その場所に別の誰かがいたのでしょう。その場合は私はどこに居たのでしょうか。同じ見た目や中身の人はどこにも存在しなかったのでしょう。そしてそれは当然私だけではなく、あなたについても同じことが言えるのでしょう。それを考えると、本当に、不思議な気持ちになります。

 その一点だけを考えるのなら、私はここに居てもいいのでしょう。というより、居なくてもともとだったのでしょうから、何かをしなければならないという事は無いのでしょう。いるだけで大分幸せなことなのでしょう。なんだかそれでいいんだろうなあと、そう思いました。「なぜ私がここにいるのか」や「何故父と母は出会ったのだろう」ということについて、通勤時間にでも(スマホを見る代わりに)考えてはいかがでしょうかと、そう思いました。

静かに暮らしたい(土門拳『古寺を訪ねて 京・洛北から宇治へ』)

 西芳寺苔寺)に関わりある夢窓禅師について、植物に近い人間であったと紹介されていた。そしてその植物的な境地と関わりがあるのだとして、美しい苔の写真が載せられていた。自分を小さくして、その上に丸まって暮らしたいと思うくらいに美しかった。

 植物的な境地とはどのようなものなのか。まず想起されるのは、あまり動かないような人柄である。それに対して私は毎日バタバタと動いている。それはなぜか。それは、色々な欲しいものがあるからである。欲しいものがあるから働き、その分の支払いをするために時間を切り詰めて行く。そうすると余計に疲れて、余計に消費し、余計に働かないといけなくなる。そのような循環の速度によってばたばたとした日と、落ち着いた日の違いが生まれているのではないだろうか。そしてその循環は、急に止めることは出来ないものであるように思う。

 それに対して植物は、簡単に考えると、水と光を得ることに集中しているように(今の私には)見える。足るを知っているのだろう。逆に私は、足るを知らないのだろう。

 それは何故だろうか。何故、今の暮らしに満足をすることが出来ないのだろうか。欲しいものを検索してはため息をつくような生活を何故送っているのだろう。一つには、そういう風な消費を促すような仕組みが出来ているからであるように思う。自分に合わせて表示されるウェブの広告がそうである。それはどうやったら表示されなくなるのか。極論を言えば、ネットショッピングをしなければ表示されなくなっていくのかもしれない。他にもやり方があるのかもしれない。

 私があるものを欲しくなっていくプロセスはだいたいこうである。まず、広告を見て、ある商品の存在を知り、その名前を覚える。すると周りにその名前のものを使っている人が目につくようになる。名前を知っていたら検索をかけることが出来る。検索をかけると、その商品のレビューを見ることが出来るが、そこに書かれている情報は「私がそれを買わなければいけない理由」である。「商品の名前」に「買う理由」がどんどんと結びついて行ったときに、欲しいという状態が生まれる。私の中では最近はこのようにして「欲しい」という気持ちが生まれているように思う。

 それを断ち切ろうと考えるならば、私はどのようにすればよいのだろう。また、私がそれを断ち切らなければいけない理由は何なのだろう。以上の2つを、通勤時間に10分でも考えたらよいのではないかと、そう思いました。

感覚が違うわたしたち(九鬼周造『偶然性の問題』余滴)

視覚が不自由になった場合、私たちは眠りについたときに、どのような夢を見るのでしょうか。『偶然性の問題』には「聴覚的内容が多い」と書いてありました。

 それはどのような感覚なのでしょうか。夢で見る事は、起きている間に見たことについての反復に基づいて再構成されると考えると、今見ているものとの間には類似点があるはずです。そこで、例えば新幹線の中で目を閉じると、キーボードの音が聞こえてきます。「ああ、あれはレッツノートみたいなキーボードの音だな」なんて、そんなことを考えていたりします。そういうことを考えるのは、私の興味や思考の形式によるところもあるのかもしれません。(一時期レッツノートのキーボードの操作性に興味津々でした)

 「自分の感覚に基づいて自分の興味が絞られていくのか、それとも自分の興味に基づいて自分の感覚できるものが決まっていくのか。」ということについて考えてみてもいいかもしれません。またそういう風に簡単に二分できるのかどうかについても考える必要があるのでしょう。例えばおいしい居酒屋は、お客様の細やかなニーズを察知し、心配りをしてくれるものです。そのお客様の細かいニーズを察知することが出来るかどうかという点が、明暗を分けることもあるのでしょう。そのことについて考えるのならば、「お客様の反応への興味」から「反応への感覚」が養われる部分もあり、それは内因的な要因とよるとも考えることが出来るかもしれません。

 しかしそもそも目をつぶった状態では視覚的情報を察知することは難しいはずです。感覚が物理的システムによるものであるとすると、そこには外部からの干渉の余地があり、外因的な要因が発生するでしょう。

 そのように、どちらか一方から一方という風に原因と結果を考える事は難しいのだと思います。ただし、どちらにせよ考えなければならないことは、感覚が違えば、そこから感知されるものも違うということです。同じものを「見て」も、その感覚は違います。それは私とあなたとの断絶です。その間を言葉でどれほど埋める事ができるのでしょう。相手が見る夢について、私たちは考える事が出来るのでしょうか。分かり合うことは出来るのでしょうか。そのことについて、通勤時間に10分だけでも考えてみてもいいかもしれないと、そう思いました。

私を私たらしめているもの(九鬼周造『偶然性の問題』余滴)

 私を構成するものの中で「私らしいもの」と「そうではないもの」をどのように分けたら良いのでしょうか。たとえば私は文章を書くのに、キングジム社のポメラを使っています。文章を書く機能だけ持たされたワープロです。これは私らしいのか、それともこれがここにあることは偶然なのか?そのことを考えることは難しいことであるように思われます。それを問うためには、どのような問いを自分に対して立てれば良いのでしょうか?
 「これは替えのきくものですか」という問いに対しては、「使い心地は替えることはできません」と答えるでしょう。文章を書くという行為はノートでもスマホでもパソコンでもできますし、パソコンの方がたくさんの機能を持たされていて便利かもしれません。しかしながら、この軽さと、集中の続き方と、縦書き原稿用紙にワンタッチで切り替えることが出来ることと、親指シフト専用のキーボード(入力方式の一つ)は、パソコンで行うのとは少し違う、ポメラだけの使い心地であるように思われます。
 そこで、「その使い心地を使えなければあなたではないのですか」という問いを新たに立ててみます。それもとても難しい問いであるように感じます。これを使わなくても私は私のままでしょうが(消えたりはしないのでしょうが)、これを使わない生活を考えることはもうできません。「これを使える私でありたいのです」と答えたいような気がします。そう答えることは、「何が私を私たらしめているのですか」という質問に対して、「私が何をしたくて、それに何が必要なのか」という風に、「意志」という切り口を持って答えることになっていると思います。他の切り口もあるのでしょうが。
 そうすると、「あなたがそうありたいと思うその意志は、あなたをあなたたらしめているものですか」という問いが考えられます。難しい問題です。

 春の足音が聞こえる今日この頃ですが、「何が私を私たらしめているのか」と考えると、少なくとも通勤電車の片道くらいは時間がつぶせると思いました。