スティーブ・ジョブズの言葉を知っていたから(『曽我物語』)

曽我物語』巻七「千草の花見し事」を十分だけ読みました。時は鎌倉時代、兄弟が親の仇討ちにこれから向かうという場面です。その仇討ちが成功した場合にも、その罪で私たち兄弟は殺されてしまうだろう、ということを考えながら、庭に咲く植物を見て、それを見るのも最後だろうと別れを惜しむ場面でした。
 「もしこの時が最後の瞬間だと言うことが分かっていれば、景色はどういう風に見えるのだろう、私は何を考えるだろう」ということを考えさせられました。私の前には(物理的に・比喩ではなく)砂時計が置かれてあります。(時間を管理する用途で使っています。)それを見ていても思うのですが、時間は今この時にも過ぎていっています。では、明日には私がここにいることが出来ないとしたら、今何を考えるでしょうか。
 例えばお天道様との別れを惜しむでしょうか。これまで何度も見てきた空ですが、もう一度見たいと思うでしょうか。どちらかと言うと、海はもう一度見たいともしかしたら思うかもしれません。日の光を浴びながら海岸線を自由に散歩してみたいと思うかもしれません。もしくは、身の回りにあるちょっとしたものが愛おしく感じるかもしれません。
 それよりは、出来ることなら残される人の気持ちを慮ることの出来る人になりたいと思います。私が居なくなったら、私の周りの人はどう思うのでしょうか。改めて、私の周りの人たちにはなるべく優しく接したいと、そう思います。
 しかし実際には、そんな風にあらかじめ心の準備が出来る訳ではなく、突然私は居なくならないといけないのでしょう。そう思うと焦ります。
 テーマが大きすぎたため、正直なところ実感を持って書くことは出来ませんでした。ただし、それくらい私はいつも当たり前のように生きてきていたということを実感することは出来ました。今の暮らしがいつまで続くのかは誰にも分かりません。だとすると、常に「今日が最後だったらどうしよう」という問いを忘れてはならないのでしょう。自己啓発本みたいな結論になりましたが、『曽我物語』を少し読んでみて、そう思いました。
 皆様も通勤時間にでも、「もし今日が最後だったら自分は何を考えるか」について考えてみられてはいかがでしょうか。読んで頂きありがとうございました。