古文の勉強について③

なぜ高校で古典を学ぶのかという問いに対しては、結局「読みたいと思ったときに古典が読めるようになるためにやっているんだよ」という答えになるのでは無いかと思います。もし古典が読めれば、日本語で書いてある本はすべて読むことが出来るということになります。読めないよりは読めた方が良い。それは確かなことだと思います。


問題としては、「別に古典を読みたいとは思わない、将来読みたくなったときには勉強をするから、今は今したいことをしたいよ」こういう意見に対しては上の考えは無力だということです。そして外から無理矢理読ませようとするだとか、これが日本人の「教養」なんだとか、そういう答えに比べたら、右の答えが正しいように私には思われます。だいたいのところ、したいことよりすべきことをするべきなのだという人は、古典ギリシャ語を勉強してプラトンを読む「べき」だと思います。(普通のサラリーマンで、かつそれをされている方に対しては私では何も言えません)大人になってから学ぶ「べき」ことを学ばず、一方で自分より立場が弱い者には何かの「べき」を押しつける。そういうことは私はしたくないなあと思います。


「すべきこと」だと上から何かを言うのではなく、古典を読んだ先になにがあるのか、その一端だけでも示せるような時間が、学校の古典の時間になればいいと思います。そもそも古典を読んだことが無い人が、古典を読みたいと思うことは稀だと思います。全く初めて読む人に、分かりやすく、噛んで含めながら、一緒に古典を読んでいく。もしその内容が興味深いものでしたら、興味を持つ高校生がいるかもしれません。今は忙しくても、将来古典を読んでみようと思う高校生もいるかもしれません。「テストだ!」「覚えろ!」「これが日本の心だ!」ではなくて、そういう「種をまく」時間を高校生に設けて頂く(極端な話いつ死ぬかも分からない限り、時間は誰にとっても貴重なものです)そういう時間になればいいなあと思います。


ただし、上の考えにも問題があります。そういう、「これが古典なんだよ」と紹介する時間をなぜ今、高校生に設けていただく必要があるのかという点については、上の答えではクリアできていないのではないかという問題です。それには「学べる時間は限られているんだから、機会がある内に教えておきたいんだ」という答えが考えられます。しかし「学べる機会が限られているのなら、大人になってから古文を読むことは難しいのだろうから、無駄では無いか」という反論が考えられます。一方で学べる機会がまだ有るのなら、余計なお世話になってしまうのかもしれません。結局、高校で古典を教える合理的な理由が私には考えつかずにいます。私は古典が好きで、その古典を紹介したいというエゴでしかないように思います。しかし、そういうエゴをもった人間が各分野にいて、好きな分野の話を競って高校生に聞いてもらう。そういうことをしていたら、片寄りの危険性が少なく、高校生が将来の展望を考えるのに役に立つのではないかと思います。時間は誰にとっても有限ですが、高校生の時期が進路選択のために大事な時期だというのは大まかには言えるかと思います。そのためのお手伝いとして、各分野の話を聞いて頂く。聞いて貰う方は勿論嬉しいですし、高校生の方にもそれなりのメリットがあるのではないでしょうか。


上のように考えるのなら、高校生が進路選択の時期になって、「やりたいことなんて特にないなあ」と言うことは教師の責任もあるということになるかと思います。「やりたいことばかりで選べないよ」と言えるような授業を展開すること、これが理想なのですが、そううまくいくでしょうか…