春はあけぼの!(別にあけぼのでなくてもよい)(『枕草子』より)

昨日の歩数は9319歩でした。今日は日本古典文学大系19番の『枕草子 紫式部日記』より、『枕草子』です。

春はあけぼの【夜明け前】。やうやう【次第に】しろくなり行く、山ぎは【空の山に接するあたり】すこしあかりて【明るくなって】、むらさきだちたる雲の【が】ほそくたなびきたる【たなびいている】。

はい。皆さんご存じのやつかと存じます。つい引いてしまいました。

私は毎朝六時ごろに、駅までの道を歩くのですが、最近(三月十一日現在)そのくらいに日が明けるようになってきました。駅までの道には神社があって、神社林に鳥がたくさん棲みついているみたいです。日が照って来ると共に彼らはしきりに鳴き始めます。「はじまったよ!今日も一日がはじまったよ!すごいね!」と私には聞こえます。神社の向かいには少し大きな家が建っていて、その「すごいね!」という声が反響して、反響した声に反応するのかまた鳥が鳴いて、大合唱です。なにがすごいのか正確には分かりませんが、私も「すごいね!」と思う日もあります。また、文法を持っていそうなくらい上手に鳴く鳥がいます。姿が見えないのが残念です。

また、山の向こうには雲が立っていて、その雲が赤く照らされているのですが、その形が山よりも山らしくて目を疑う時があります。あんなに高い山があったかとだまされるときもあります。ビルの隙間から朝日がさす時もあり、その朝日がビルに反射して真っ赤に染まります。確かに、「春はあけぼの」だよなあと最近思っていたので、つい引いてしまいました。私にとっての春の曙は、例えばこんな感じです。

 

枕草子』から感じることは、何かについて(何でもいいのですが)自分の思うことを言語化することの大切さかなあと思います。もちろん清少納言には元々持っている知識があって、彼女の独創とは必ずしも限らないかもしれませんが、別に人の考えから影響を受けたものでも構わないのかもしれません。とにかく、自分が感じたことを書き残していくという行為の大切さを感じます。

 

何故大切か。言葉にしなければ大切なものが消えてしまうからでしょうか。他人に共感してもらうことが可能になるからでしょうか。それとも、書くことで自分や他者に新たな発見をもたらすからでしょうか。すみません、正確なところは、私にもよくわかりません。ただし、書くことは人間が持つ技術の一つだったんだなあと、少なくとも『枕草子』から(というか古典から)感じることだと思います。ナイフの使い方や縄の使い方と同じように、様々な用途がある技術です。私はこのブログを通して培おうとしているところなのですが、国語の授業などでも培っていかないといけない技術なのではないかと思います。それに、人の考えを聞くばかりでは疲れてしまいますし。

 

たまには、スマホのメモ機能にでも、お気に入りの風景を言葉でスケッチしてみてはいかがでしょうか。(読み返してみたら、私のスケッチはひどいな…)