自然に含まれているもの(『正法眼蔵』より)

こんにちは。今日は日本古典文学大系81番の『正法眼蔵 正法眼蔵隨聞記』から『正法眼蔵』です。(予測変換で出なくて悲しかった)道元が書いた、鎌倉時代の仏教書です。こういう言い方が合ってるかは分かりませんが、いわゆる「禅」ですね。

その中の「渓声山色」という章から読みます。「渓声」は「渓水の声」、つまり谷川の水の夜流れる音のことと大系の注にあります。(聞いたことあります?)山色は「山の姿、かたち」のことと注にあります。この「渓声山色」という章では、蘇軾という宋代中国の詩人が、夜中に谷の水が流れる音を聞いて悟った、という話が引かれています。(他にも、竹に石の当たる音を聞いて悟った、などの話も引かれています。)その時に、蘇軾が作った偈(仏教の心理を詩の形で述べたもの)がこれです。

渓声便(すなは)ち是れ広長舌、
山色清浄身ニ非ざること無し。
夜来八万四千偈、
他日如何が人に挙似(こじ)せむ

谷の水は仏の説法(広長舌)で、山の姿は仏の身(清浄身)でないものはない。そして、その真実は谷の水の音を聞いている今を除いて、人に示すことのできない真実である。注を読んでいると、そのような内容に取れます。

うーん、どういうことでしょうか。ざっくりと方向性だけ取ると、「自然には真実が宿っていると、言えなくもない、のかな?
そのエピソードを引いた後の道元の言葉です。

うらむべし、山水にかくれたる声色あること。又よろこぶべし、山水にあらはるゝ時節因縁あること。

山水に隠れている真実の声や真実があることを恨み、またそこに真実に触れることが出来る機会があることをよろこぶべし、そのように書いてある気がします。

この節を読んで、なんとなくたんぽぽの花をしげしげと眺めてみました。(本当になんとなくです)

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たんぽぽ

改めて見ると、花の色の鮮やかさが際立っています。また、花びらの形をどのように表現すればいいか、じっくりと考えてしまいます。先は少し細くなっているとか、花びらと花びらの間に一回り外側の花びらが顔を出しているとか、何本か筋が走っているとか、先が三つに分かれていることが多いとか、中央には桜のような五角形の何かがあるとか、そういう観察をしていると、意外に飽きることがありません。

はい、完全に自分の文脈に引き付けてしまいました。しかし、案外無人島にこのまま放り出されても退屈しないで済むかもしれないと、そういうことを思うようになりました。(生きてはいけないのでしょうが…)ぼんやりと自然に潜むものについて考えてもいいかもしれないと、そう思いました。