言葉のタフさと、高校生の文法の学習(松尾聡『古文解釈のための国文法入門』より)

松尾聡『古文解釈のための国文法入門』(筑摩書房、2019年)に目を通しました。
高校生に文法を教えるにはどうすればいいのでしょうか。ぶっちゃけ、私も文法を全然分かっていないのに…


この本を見てつくづく感じたことは、言葉がどれだけタフに使われてきたのかという事実です。多少乱暴に使っても言葉は通じてしまいます。だから、様々の使い方が許されます。この本の中では様々な用例を挙げて、一つの言葉の様々な意味の分類を挙げています。そして、その分類で「怪しい」と思った個所は、正直に「怪しい」と書かれております。本当に分けても分けても、その分類には当てはまらない例が出て来るんだなあ、とのんきに思いました。(いや勉強しないと…)


しかし、もう一つ思ったことは、このような「当てはまらない例」は、分けることによって意識されるんだな、ということです。分けたからこそ、特殊に見える例が見つかります。言葉の分類を言葉にすることで(右手で右手をつかむような話ですが…)、その分類が妥当かどうかを話すことが出来るようになり、様々な説が生まれます。その分類の前と後では、言葉に対する意識は変わっているように思います。


文法は、言葉のタフさへの挑戦ではないでしょうか。言葉の性質を口にすることで、無意識に使われていた部分から新たな発見が生まれ、その発見がまた新しい言葉の性質に対する説明を生みます。言葉が変わり続けます。その中でそれを可能な限り妥当に分け、整理する。


学校で教える時は、ずいぶん昔の文法を用います。それでも、古文を解釈するうえで、少なくともその概形をつかむことはできるでしょう。しかし、その学校文法ですら高校の頃は複雑に感じていました。(今もか…)その複雑に感じた学校文法も、ずいぶん多くの例外に目をつむった上での分類だったのだなあと思いました。教師も生徒も、言葉のタフさについて自覚し、分けることの難しさを前提に授業を展開しないといけないのではないかと思いました。それを自覚させるのも、また文法なのかもしれませんが…