詩の授業の構想②

前回の続きです。


詩を読むという行為には、驚きが含まれているのではないかと思います。物の見方と、その表現の仕方、或いは、物に対する感じ方や考え方に対する驚きです。他者のそれと向き合うことで自分との差分が意識されます。それがまた自分の意識に対する反省を促すというか、ざっくりと言うと、物の見方や考え方が更新され続ける。いつもと同じ通学路が退屈でなくなるためには、そのような「発見」が不可欠ではないかと思います。逆にそのような「更新」がされ続けるのであれば、退屈はありません。


私たちは、今の世の中で絶えず新しい刺激にさらされています。それは詩のように発見をしなくても、よそから勝手に与えられるものです。それの良しあしは今は分かりません。(個人的には、誰かから与えられるものにはそれなりの意図があって、その意図に従って何らかの影響を受けてしまうのではないか、という事が心配です。というか、癪なところです。)そういう受動的な刺激には受け取ってから発見するまでのタイムラグがありません。それに対して詩を受け取り、解釈し、共感し、発見するという行為には多くの時間と労力がかかります。言葉を知り、筆者の意図を考え、技法を暴き出し、そして筆者の気持ちに迫る作業です。何が違うのでしょうか。

 

詩を読むという事は、人のことを自分のように考えるという作業がどうしても含みこまれるのではないかと思っています。それは言葉を通して他者の気持ちを考えるという営みです。言葉を通して他者を理解することは簡単なことではありません。言葉が思いもよらない意味で使われたり、そもそも知っている言葉が違ったり、或いは本音は別のところにあったりします。そうしてようやくたどり着いた「真意」は言わずもがな、「自分が考えるところの」相手の本音です。とても難しい。

 

逆に、その難しい作業は「相手の立場に立って考える」ことの難しさでもあるかと思います。高校生には(というより、多くの人には)難しい作業です。(理想化して書くならという話かもしれませんが。)

 

ということで、人の詩を読むという作業よりも、自分で詩を作るという作業の方が簡単なのではないかという発想が浮かびます。まず、何かを「書きたい」という気持ちがあって、その言葉を探して、なかなか見つからなくて。そういう経験を基に人の詩を読むという授業はどうかなあ、と思いました。

 

恋文を書いてみようという授業と抱き合わせにしたら、或いは盛り上がるでしょうか。いや、きっと変な空気になってしまうかもしれません。高校生が書きたいことは何だろうか、ということを今後考えてみたいと思います。合わせて、上の考えももう少しゆっくり考えたいです。