桜を見立てる(『近代秀歌』より)

小学館日本古典文学全集『歌論集』の「近代秀歌」からです。

山櫻咲き初めしよりひさかたの雲ゐに見ゆる滝の白糸

(金葉・巻一・五〇・源俊頼

小学館の現代語訳には

山ざくらが咲きはじめてからは、それを遠くからながめると、滝の水を遠望すると白い糸が垂れているようにみえるものだが、(ひさかたの)空にかかるその滝の白糸だ、山ざくらは

とあります。

今年の桜ははやいですね。その桜を、滝に見立てた歌だそうです。
昨年引っ越して、今住んでいる所で初めての春を迎えているのですが、向こうの山沿いに桜の白い道が出来ていて、そこまで行ってみたいなあと心があくがれていました。探してみると、結構咲いているものですね。すぐに散ってしまうので、なおさらそわそわするというか、家の中に閉じこもってはいられないような気持になります。そしてちらちらと桜の方に目をやると、たしかに、雲とか滝とか、色々なものに見えてきます。(その雲や滝も又、色々なものに見えてくるのですが)
ずっと注意してみていると、気になるものが「変質」する瞬間があるのでしょうか。いわゆる自然物の「見立て」になるのでしょうが、その背後には目に映ってしょうがないような自然があるのかもしれないなあと思いました。