うつほに行きたい(『宇津保物語一』より)

昨日の歩数は5310歩でした。今日は日本古典文学大系10番の『宇津保物語一』の「俊蔭」です。
母と子が暮らしに困り、子に導かれて森の中の「うつほ(木の洞穴)」に至る場面です。意外に暮らしやすかったようで…

 

【食べていくために】朝(あした)に出で、夕(ゆふべ)に帰りし暇のなさも【森の中では】やすまりぬ。たゞ眼の前なれば、我【母】も人【子】も、箱の蓋なるものを【ぴったりくっついて】、引きよするやうにて、わづらひなくて、たゞ【母は子と】うち遊びて、あかしくらせば、こゝにて世を過ぐさんと思ひて、子にいふ。
「イま【今】は暇(いとま)アめるを、オのが【母の】おやの賢こきことに思ひて、【私に】教へたまひし琴【を子どもに】ならはし聞えん【教えよう】。彈き見給へ」といひて、りうかく風【琴の名前】をば、この子の琴にし、ほそを風【琴の名前】をば、我【母】ひきて【子に】習はすに、【子は】敏く、賢こく彈くことかぎりなし。

 

人けもせず、けだもの、熊、狼ならぬは見えこぬ山にて、かうめでたきわざをするに、
たまたま聞つくるけだもの、たゞこのあたりにあつまりて、憐びの心をなして、草木もなびく中に、ヲ【山の尾】ひとつを越えて、いかめしき牝猿、子供おほく引き連れて來て、この物の音(ものゝね)を賞デテ聞ク。大きなるうつほを、又領じて、年を経て、山に出で來る物ヲとりあつめて、棲みける猿なりけり。この物の音にめでて、ときどきの木の実を持チ、子どももわれも引き連れて、持て來。かくしつゝ、【親子が】この琴ひくを聞く。

 

 

山の奥で琴を弾く生活、いいですね。(大変そうですが)ボス猿にも気に入られています。


別にそういう意図で書かれているわけではないでしょうが、日ごろの暮らしに追われ、なかなか何か一つの事に没入する時間を作ることが難しくなっている世の中です。それこそ、私なんかは山の中に住まないと琴の練習は出来そうにないなあ、などと思いました。(集合住宅ですし)少なくとも携帯電話の電波が届かないところに行きたい…しかしこの話みたいな「熊、狼ならぬは見えこぬ山」に行けないことは冷静に考えたらすぐに分かります。もしそんなところに行ってしまったら、毎日唐辛子を体に塗りたくり、祈るような気持ちで生きていかなければなりません。


この子は大きくなったときに、生まれ育った「うつほ」をどんな気持ちで思い出すのでしょうか。昔は私も、何かに没入できる私だけの「うつほ」を持っていたような気がします。そういう「うつほ」を、今どうやって見つけたらいいんだろうと思いました。