文字にするこわさと、それが育むもの

昨日の歩数は8396歩でした。今日は日本古典文学大系96番の『近世随想集』から「ひとりね」を読みます。帯には「新しい文学史的視点じゃら選ばれた江戸時代の代表的随筆四篇!」とあります。


まず、作者の古典を読んだ跡を見て楽しく思えた個所があります。

 

つれづれに雨にむかひて月をこひ【見たいと思い】、散ぬるはな【花】こそいとおもしろけれ。

されば赤染右衞門【平安時代の女流歌人】の家の集に、

 

一條どの【人名。その人の所へ】へ【赤染衛門の主人が】桜御覽ぜにわたらせ給ひしに【花見に行ったときに】、【私は】なやむことありて【体調がすぐれず】御供にまいらざりしかば【主人のお供に行けなかった時】、【主人が花見から】かへらせ給ひて【お帰りになって】、散りたる花を紙に包みて【私に】たまわせたりしに、【くださった時に私が歌で返事をした】

 

さそはれぬ 身にだになげく 桜ばな ちるを見つらん 人はいかにぞ
(お供をしなかったこの私さえ嘆くのですから、目の前で桜が散るのを見た人の嘆きはどれほどだったでしょう。)

 

と【赤染衛門が】よみしも【歌を詠んだのも】、あはれふかし。


すべて【一般に】人のなげくは、其恋しきものより、身のうき【自分のつらさ】に引くらべてなげくなれば、恋しき人より、まづ手前の身がかわゆしと見へたり。すがたもはなも、身を離れて【いるにも関わらず】かわゆひ【かわいいと思えることが】がまことのかわゆらしい也。

 

冒頭の「つれづれに雨にむかひて月をこひ…」の所は『徒然草』から取っているそうです。見えない月を見たいと思い、散る花に心を動かす様は、所謂風流なというか、高校でこんなことを言ったら「詩人じゃん」と言われるような内容です。私は好きです。

 

そして赤染衛門の話を引きます。眼前に無いものすら惜しむことが出来る、その気持ちに作者は共感します。

 

しかし最後に、結構シビアなことを言ってないでしょうか。結局人間嘆くといっても、相手の立場ではなく、自分の立場に置き換えて嘆くものである。それでも愛しいと思えるものが、本当に愛しいものである。私はこのような意味で取りました。風雅な文章に親しみつつも、それに現代の少しシビアな感覚を以て共感している。江戸時代の人の古典を読んだ跡を見ることが出来て、楽しく思います。

 

しかし、なかなかパンチの聞いた文章があります。

 

女郎さまにもうつくしいあり、かわゆらしい有り、あどけなき有、智惠ある有、じまんらしい有、にくてらしい有、あわれなる有、いやしき有、もつたいらしいあり、うれい成あり、おかしき顏あり。
中にて、あどけなきを第一にすべし。女郎のちゑすぎたるはいやなり。音羽といふ女郎の顏は、江戸町の花前((はなさき))に似ていやなり。「あの様ないやなはあらじ」といふに、さる人のいわれしは、「あの様に顏は見へても、心はよい女郎さま」といふ。あのかほに心がわるくば鬼也鬼也。

 

訳しません。このような感じの内容の話が、印象に残ってしまいました。もちろんこんな話ばかりじゃないのですが…(作者は多芸な方で、琴の話とか鼓の話、俳句や和歌の話もあります。耳かきの話もあります。)

 

上のような、所謂「下卑た」発言とでも言うのでしょうか、今なら炎上するかもしれない発言と言うのでしょうか、「教科書には載せられそうにない」話も結構目につきました。

 

このような話は、きっと今もどこかで誰かがひっそりと行っているような話だと思います。内容は一度置いておいても、所謂「下卑た」話をしたことが無い人はあまりいないのではないでしょうか。そういう話が楽しいと思う人もいて、聞いて気分を害される方もいらっしゃると思います。そういう「誰かを傷つけてしまう恐れのある」話し言葉はすぐに消えてしまいますが、文字にするとそれが残ってしまいます。文字にする恐ろしさを少し感じてしまいました。

 

しかしながら、例えばエロ本だって文化だと思ったりもします。春画から続く文化史を研究されている方もいらっしゃると思います。

 

私の住んでいる町の近くの駅には、「白ポスト」が置いてあって、「有害図書はこちらへ」と書いてあります。しかし、「有害」というのは白ポスト側の価値観で、立派な文化物という見方も行えるのではないでしょうか。そのような「下卑た」側面から逃れられる作品は殆どないのではないかとすら思います。

 

勿論、文字にするからには相手を傷つける可能性には最大限注意を払うべきだし、その配慮の責任は書く側に帰するものであるように思います。しかし、文章を書くという事は人間の様々な暗い思いを明るいところに引きずり出してしまうものです。そのような、見方によっては「悪いもの」を引きずり出しながら、同時に見方によっては「良い」ものもたくさん育みます。

 

すくせ【前世の縁が】いかなるゑにしにてや【どのようなものだったのでしょうか】、逢初(あひそめ)てより此かた、一時(ひととき)も此大夫のこと忘るゝ事なく、いねては【寝てはその女性が】夢にたちそひ、思へばおもかげにうつろひ、恋し床(ゆか)し、身にしみじみと、すこしそむけていねしびんのかゝり【彼女の髪の様子】、かわゆらしさの目にさへぎりて、物もくふ心地せぬはいかなる心ぞや、聞まほしけれ【聞きたいと思う】。

 

(中略)
【本当に恋人を大事にすることとは】
すべて人の見る前にて【相手が目の前にいる時に】大事にするは烏素(うそ)也。女郎の見ぬ所に【相手がいないときにも】、心底をかはらず、いくとせへても【どれだけ時間が経っても】思は石になして大事がつてやる【相手を大事に思うこと】が恋路なりとかや。
一たびいひかはせしことなどありては【一度約束したら】、首はくび、胴は胴に成とても【首と胴が分かれても】、引((ひか))ぬがよし【引かないのが良い】。

 

【信頼の大切さ】
大事の事なり。惣じて女郎さまのみにかぎらず、友だちの心安き中にても、一たびうそ【嘘】い【言】ひてはづしぬれば、其うそ【人から】一生のうち指さしをして笑るるのみならず【笑われるだけではなく】、何事によらず、「又いつものうそようそよ」といふて、誠の事もうそに成(なる)事なれば、大事といふはいか成(なる)どうらく成(なる)中にても、信の一字を忘るべからず。

 

この一途な文章も、先のような文章も、同じ人の心から出て来たものです。文字にするのは一面では恐ろしいことですが、大事なものを育む行為でもあります。どうか、安易に叩かれないことを望みます。

 

ただ、一途な思いに対する共感や、信頼の大切さを述べた上の文章には続きがあって…

 

揚屋のはらひ【そういう時の支払い】も同じ事也。一たびうそをつきまはしてふらちの事有ては、重ての時【次来た時】用られぬ事【相手にしてもらえないのは】、いくばくの損ならずや【大損ではないか】。

 

私は、誰がが書いたものをなるべく叩かず、なるべく愛せたらいいと思います。もちろん、簡単ではないのでしょうが…