道を求める意思(『三教指帰 性霊集』より)

一昨日の歩数は5171歩でした。今日は日本古典文学大系71番『三教指帰 性霊集』から「三教指帰」です。作者は空海です。


ぐうたら息子に、儒教の先生、道教の先生、最後に仏教の先生が教えを授けるという内容かと思います。作者は空海なので、結局仏教の人がぐうたら息子を改心させるという内容です。内容的には仏教が一番だと書かれていると思われるのですが、他の二人の教えも素敵すぎて、読んでいて、「好きな道を選ぶどん」と言われた感じでした。


家に居て親に孝行するか、家を出て俗世を逃れ山に行き、神仙の道を目指すのか、それとも家を出て、仏道の修行をするのか。三人とも、「正しくあろう」という意思を強く感じます。これはすごいことだと思います。この話に出てくる人たちは、「どの道が正しいか?」という基準で考えています。それに対して私なんか、正しくあろうと考えても居なかった。日常を生きるのに精一杯です。しかし、昔の人はもしかしたらもっと精一杯だったのかも知れません。そして、精一杯すぎて、生きていけないこともままあったのかもしれません。だからこそ、「何が正しいのか」を切実に考えるのかもしれないと思いました。その言葉の中には重たいものが多々あります。そして絶望があるから救いを求めるのだろうと思いますが、その切実さが心に響くのかもしれません。「正しくあろう」と考えないことは幸せなのか、と疑問に思いました。