本を開く、梅の香(『大鏡』より)

昨日の歩数は9121歩でした。今日は日本古典文学大系21番の『大鏡』です。例によって一部しか読んでいませんが、たくさんの人の、面白いエピソードが短く載っています。
菅原道真のエピソードです。政敵の陰謀により、流されることが決まった後の場面です。

 

このおとゞ【道真】子共あまたおはせしに【子供がたくさんいるのに】、女君達はむこどり、男君達はみな、ほどほどにつけて位どもおはせしを、それもみなかたがたにながされ給て【離れ離れにされる】かなしきに、おさなくおはしける男君・女君達【が】したひなきておはしければ、「ちひさきはあえなん」【幼い人は連れて行ってもいいでしょう】と、おほやけ【朝廷や天皇】もゆるさせ給ひしぞかし。【しかし】みかど(醍醐)の御をきてきはめてあやにくにおはしませば【厳格だったため】、この御子どもをおなじかたにつかはさゞりけり【同じ所にしてくれなかった】。かたがたに【互いに】、いとかなしくおぼしめして、御前の梅花を【道真が】御覽じて、

こちふかばにほひをこせよ、むめのはな、あるじなしとてはるをわするな」
【道真の歌。春になり東の風が吹いたら香りを(これから私が流される筑紫まで)よこしなさいよ、梅の花。主(私)が居ないからといって、春になって咲くことを忘れてくれるな】

 

 

そして、この後所々で道真が歌を詠みながら話が進んでいくのですが、ここで止めます。

 

大鏡には、短くて面白いエピソードがたくさん載っています。それを全部通して読んでも楽しいのですが、「どこを開いても、なんとなく面白い」という感覚が大切なのではないかと思います。スマホだって、「触るとなんとなく楽しい」ものです。電車の中で多くの人がスマホを触っている理由はよく分かります。しかし、古典もまた「開くとなんとなく楽しい」ものです。その感覚が、古典を読み継いでいくのに必要なものなのではないかと思います。ただ、スマホよりも読んでいて疲れるものであるかもしれず、そこが難しい点かもしれませんが…