音と思い出(『源氏物語四』より)

昨日の歩数は4517歩でした。今日は日本古典文学大系17番『源氏物語四』から「鈴虫」を読みます。
源氏が、色々あって(本当に色々あって)出家した妻(元妻?だいぶ年下)の女三宮のもとを訪ねていきます。時は秋、八月十五夜の夕暮れです。

十五夜の月の、まだ影かくしたる夕ぐれに、佛の御まへ【仏前】に宮【女三宮】おはして、はし近う【部屋の隅の近くにいて】【庭を】ながめ給ひつゝ、念誦し給ふ。【念仏を唱えていた】わかき尼君たち二三人、花たてまつるとて、ならす、閼伽坏(あかつき)のおと、水のけはひなど聞ゆる、さまかはりたる【尼たちの】営みに、そゝきあへる【女三宮が参加している様子が】、いとあはれなるに、れいの【源氏が】わたり給ひて【いらっしゃって】、
源氏「蟲のね、いとしげう【繁く】、乱るる夕(ゆうべ)かな」
とて、われも【源氏も女三宮とともに】忍びて【小声で念仏を】うち誦(ずむ)じたまふ阿彌陀の大呪(ず)【の音が】、いと、たふとくほのぼのきこゆ。げに、こゑごゑ聞えたる中に、鈴蟲(すゞむし)の【声が】ふり出たるほど、はなやかにをかし。
源氏「【秋好中宮、源氏の知り合いの台詞】「秋のむしの聲、いづれとなき中【甲乙つけがたいなか】に、松蟲(まつむし)なむすぐれたる」とて、【秋好】中宮の、はるけき野邊をわけて、いとわざと【松虫を】尋ねとりつゝ、【庭に】【秋好中宮が】はなたせ給へる【が】、しるく【はっきりと】【松虫が】鳴きつたふるこそ、すくなかなれ。【「松」虫という長生きしそうな】名にはたがひて、命の程、はかなき蟲にぞあるべき。心にまかせて【思う存分】、人きかぬ、奥山・はるけき野の松原【では】に、【松虫は】聲、をしまぬも【ないことを考えると】、いと、【松虫は】へだて心ある蟲になむありける。鈴蟲は心やすく、今めいたるこそらうたけれ【かわいいなあ】」
など【源氏が】の給へば、【女三】宮、
 おほかたの秋をば憂しと知りにしをふり捨(す)てがたきすゞ蟲の聲
(秋はつらいものと知っておりますが、鈴虫の声だけは捨てがたいものに思います)
と、しのびやかにの給ふ、いとなまめいて【艶っぽく】、あてに【上品で】おほどかなり【おっとりしている】。
源氏【女三宮の「秋」に「飽き(私に源氏が飽きたと知ってしまった)という意が欠けられていることを察知して】「いかにとかや。いで、おもひの外なる御ことにこそ【心外】」とて、
  心もて草のやどりをいとへどもなほすゞ蟲の聲ぞふりせぬ
(自分の心から、鈴虫は草の宿りを出ていき、あなたも私の家から出て行ったけれども、やはり鈴虫の声は古くなることもなく、あなたの声も相変わらず美しい】
など【女三宮に】きこえ給ひて、きむの御琴めして、【源氏は】めづらしく弾たまふ。【女三】宮の、御数珠、ひきおこたり【数珠を引く手を止めて】給ひて、【源氏が演奏する】御琴に、【女三宮は】なほ心いれ給へり。月さし出て、いと花やかなる程もあはれなるに、空をうちながめて、世中さまざまにつけて、はかなく移りかはる有様も、おぼしつゞけられて、例よりも、あはれなる音にかきならし給ふ。

読経の声、鈴虫の声、琴の音が重なって、物語が展開していきます。こういう文章を読むと虫の音が聞きたくなります。子供の頃、住んでいた家に小さな庭があって、よく秋になるとコオロギを捕まえていたのですが、いつしか虫取りをやめてしまいました。当然、虫の音にこんな艶っぽい思い出はありません。『タッチ』みたいな蝉の声への思いでもありません。夜になるとテレビがいつも違う音を出してくれます。ラジオも面白いことを伝えてくれます。しかし、毎年毎年虫の音を聞いていたら、このような思い出も出来たのかもしれないなあ、と思いました。例えば、夕方五時に流れる音楽には、それなりに思い出があります。「ああ、あと三十分で部活も終わりかあ」みたいな、艶消しの思い出ですが…