恋はいつでもハリケーン(『西鶴集上』から)

今日は岩波書店日本古典文学大系」47番「西鶴集上」から「好色五人女」巻一です。帯には「人間の官能を大胆率直にうたいあげた古典 芭蕉近松と並び立つ日本文学史の巨峰!」とあります。
  いつ:江戸時代
  どこで:播州室津兵庫県
  だれが:清十郎、お夏(二人は恋仲になる)
  どうした:清十郎が亡くなり、お夏が悲しむ
ざっくり言うとこういう話です。(ざっくり過ぎるか)
清十郎はプレイボーイです。

 

「夜するほどの事をしつくして、後は世界の図にある裸嶋とて、家内のこらず、女郎はいやがれど、無理に帷子ぬがせて、肌の見ゆるをはじける。」

 

訳しません。「世界の図にある裸嶋」とありますが、「日本古典文学大系」の注には、当時の中国の世界地図には日本の東千里余りの海の上に「裸嶋」という場所が載っていたと書いてあります。とんだワンピースです。

そんな風にして遊びまわっている清十郎は父から勘当されます。そして、ある遊女との心中に失敗した後、知人の店に住み込むことになります。お夏はその店の主人の妹です。お夏は、清十郎の帯からたくさんの女性からの手紙を発見し、清十郎への恋に落ちます。この時の気持ちは一読した限りだと分かりませんでした。モテる男って、モテたという実績でモテるんですか?

 

「【その手紙には】當名(あてな)皆清さま【清十郎のこと】と有て、うら書(がき)は違ひて、花鳥・うきふね・小太夫・明石・卯の葉・筑前・千壽・長しう・市之丞・こよし・松山・小左衞門・出羽・みよし、【すべて女性の名前】みなみな室君の名ぞかし。【名だということだ。】【お夏が】いづれ【どの手紙】を見ても、皆女郎のかたよりふかくなづみて【女の方から慕って】、氣をはこび、命をとられ、勤のつやらしき事【遊女のセールストークのようでも】はなくて、【遊女が】誠をこめし筆のあゆみ、【お夏が思うには】「是なれば傾城とてもにくからぬものぞかし。又此男の身にしては浮世ぐるひせし甲斐こそあれ。さて【清十郎の】内證(ないしやう)に【心の内に】しこなしのよき事もありや【良いところがあるのかもしれない。】。女のあまねくおもひつくこそゆかしけれ【心惹かれる】」と、いつとなくおなつ清十郎に思ひつき、」

 

とあるので、たくさんの女の人に思われていることをプラスに捉えているみたいですね。女心は複雑です。そしてお夏は清十郎への物思いにふけるようになります。

 

「それより【お夏は】明暮心をつくし、魂身のうちをはなれ、清十郎が懷に入て、我は【お夏は】現が物いふごとく【抜け殻のようで?ぼんやりして】、【以下、ぼんやりした様】春の花も闇となし、秋の月を昼となし、雪の曙も白くは見えず、夕されの時鳥も耳に入ず、盆も正月もわきまへず、後は我を覚ずして、恥は目よりあらはれ、いたづらは言葉にしれ、世になき事にもあらねば」

 

この恋に落ちてぼんやりする様が好きです。その中にも季節を読み込むんですね。そして一度恋に落ちると、生活のコントロールが出来なくなる様子が書かれています。ワンピースの台詞にある、「恋はいつでもハリケーン」ですね。

 

そして清十郎とお夏は結ばれ、二人で駆け落ちしようとしますが、捕まってしまいます。その時折り悪く清十郎の店から大金が盗まれ、清十郎はその罪を着せられ、死刑になってしまいます。お夏はそのことを知らず、神様に清十郎の無事を祈ります。するとお夏の夢の中に神様が現れて、お告げをします。

 

「汝【お夏】我【明神の】いふ事をよく聞べし。惣じて【一般に】世間の人身のかなしき時いたつて無理なる願ひ、此明神がまゝにもならぬなり【無理な願いは明神にもどうすることもできない。ぶっちゃけ過ぎ】。【以下、無理な願いの例】俄に福徳をいのり、人の女をしのび【恋い】、悪(にく)き者を取ころして【取り殺せ】の、ふる雨を日和【晴れ】にしたいの、生つきたる鼻を高ふしてほしひのと、さまざまのおもひ事、とても叶はぬに【叶わないのに。願いもなかなかアグレッシブ。】【人々は】無用の佛神を祈り、やつかいを掛ける。
過にし祭【前の祭り】にも、参詣の輩(ともがら)壹万八千十六人【18016人。この辺はさすが神様】、【参拝に来た人は】いづれにても大欲に身のうへをいのらざるはなし【自分の幸福を祈らない人はいなかった。】【明神は】聞きいておかしけれ共【おい】、【人々が】散錢(さんせん)なげるがうれしく【おい】、神の役に聞なり。
此参りの中に只壹人【1人】信心の者【信心深い人】あり。高砂の炭屋の下女、何心もなく、「足手(あして)そくさいにて【健康で】、又まいりましよ」と拜(おがみ)て立しが【女は拝んでいったが】、こもどりして【戻ってきて】、【下女】「私もよき男を持してくださりませい」【恋人をください】と申。【明神】「それは【縁結びは】出雲の大社(あふやしろ)を頼め。こち【明神】はしらぬ事」といふたれども【言ったが】、【下女は】ゑきかず【聞かずに】に下向(げかう)しけり。【帰っていった】
【明神の台詞】その方【お夏】も親兄次第に男を持ば【親兄の言うとおりに縁談をすれば】別の事もなひに【無事に済んだのに】、【お夏が】色を好て其身もかゝる迷惑なるぞ。【このような苦しい羽目になるのだ】汝【お夏】、おしまぬ命はながく、命をおしむ清十郎は頓(やがて)最期ぞ」

 

かなり歯に衣着せぬ感じの神様です。今から考えれば時代錯誤な感もしますが、恋さえしなければ悲しい目に合わなかったのにという明神の台詞は、今にも通じることなのかもしれません。それでも「恋はハリケーン」ですから、コントロールできないのですが。
結局清十郎は処刑されてしまいます。お夏はまだそれを知りません。周りの人も清十郎がどうなったのか教えてくれません。すると、一人の子供が歌う歌が耳に入ってきます。

 

「里の童子(わらんべ)の袖引連て、「清十郎ころさばおなつもころせ」と【子供が】うたひける。【お夏は】聞ば【聞けば】心に懸て、おなつそだてし姥(うば)に【そのことを】尋ければ、【姥は】返事しかねて泪(なみだ)をこぼす。」


子供は残酷です。すぐに本質を突きます。本質怖い。
そして清十郎の死を覚ったお夏は狂乱状態になります。

 

「間(ま)もなく【ひまなく】泪(なみだ)雨ふりて【涙が雨のようにあふれて】、【お夏】「むかひ通るは清十郎でないか、笠がよく似たすげ笠が、やはんはゝ」の【お夏は】けらけら笑ひ、【お夏の】うるはしき姿、いつとなく取乱(とりみだ)して狂出(くるひいで)ける。有(ある)時は【お夏は】山里に行暮て【山里で夜を迎えて】、草の枕に夢をむすめば【野宿】、其まゝにつきづきの女も【お夏の周りの女も】おのづから友(とも)みだれて【周りの女も又狂乱状態になって】、後は皆々乱人となりにけり。」


恋しい人を失い、雑踏の中で思い人の姿を探し、野山で夜を迎え…これくらい激しく人は人を思うのだなあ、と考えさせられます。結局お夏は出家をし、この物語は終わります。

まとめると、物思いというものは決して楽なものではなく、しかし物思いをしないわけにもいかず、まさに「恋はいつでもハリケーン」という感じなのでしょうか。いつ、何が失われるかわからない世の中ですが、そのなかでできるだけ手を尽くし、祈るように生きていきたいと思いました。