舗装された道の先(「蘭東事始」から)

昨日の歩数は18995歩でした。今日は日本古典文学大系95番の『戴恩記 折たく柴の記 蘭東事始』から「蘭東事始」を読みます。帯には「日本の古典の中で特異な光彩を放つ自伝文学の傑作!」とあります。「蘭東事始」は近世の杉田玄白の自伝です。

 

杉田玄白たちがオランダ語を学習する困難が書かれています。杉田玄白がオランダ人に会いに行こうとしたときに、当時のオランダ語の通訳の人に言われた言葉です。

 

「それ【オランダ人に話を聞くこと】は必ず御無用【やっても仕方がない】なり。夫(それ)は、何故となれば【なぜかというと】、彼辞(かのことば)【オランダ語】を習ひて理会(りかい)するといふは至て難き事なり【とても難しい】。

 

【以下、言語を学習する難しさ】たとへば、湯水又酒を呑(のむ)といふかと問んとするに、最初は手真似にて問より外の仕かたはなし。
【手真似で聞く例】酒をのむといふ事を問んとするには、先(まづ)茶碗にても持添、注ぐ真似をして口につけて、「これは」ととへば、なづきて、「デリンキ」と教ゆ。これ即ち呑む事なり。

 

【手真似では聞けない例】扨(さて)、上戸と下戸とを問ふには、手真似にて問べき仕(し)かたはなし。これは、数々のむと数少く呑にて差別わかる事なり。
されども、多く呑ても酒を不好人(このまぬひと)あり、又、少く呑ても好人(このむひと)あり。是は、情の上の事なれば、為すべきやうなし。

 

オランダ語で「好き」をどう言うか】扨(さて)、好き嗜(たしなむ)といふことは「アヽンテレツケン、といふなり。我身【その通訳の人は】通詞【通訳】の家に生れ、幼より其事【外国語】に馴居ながら、其辞(そのことば)【アヽンテレツケン】の意何にの訣(わけ)といふ事を知らず。年五十に及んで、此度の道中にて、其意を始て解得(ときえ)たり。

 

【通訳の語釈】アヽンとは、元(も)と向ふといふ事、テレツケンとは引事なり。其向(むか)ひひくといふは、向ふの者を手前引寄(ひきよす)るなり。酒好む上戸といふも、むかふの物を手前へ引度(ひきたく)思ふなり。
即ち好むの意なり。」

 

新しい言語に接するのに、手真似で聞けることとそうではないことがあると通訳は語ります。その時のたとえ話として酒の例を出しているのが面白いです。南方熊楠が新しい言語を覚える時に酒場に行っていたという話を思い出しました。他にも留学した人から聞いたところでは、留学先では毎日が新しい言語とのサバイバルで、そこで生き抜けば語学力がついてくるんだ、と言っていたことを思い出しました。

 

そして、「アヽンテレツケン」の語を理解するのに、「語源で覚える英単語」のようなことがされていて驚きました。高校の頃受けた模試で知らない英単語が出てきて、「isで単語が終わっているからきっと何かの病気なんだ、何かは分からないが何かの病気なんだ」と言い聞かせながら解いた記憶がありますが、そういう事も昔から行われていたんだなあ、と思いました。語構成に注目して語釈をしていくという考え方はいつごろからあるのでしょうか。

 

そして杉田玄白も、オランダの医学を学ぶためにオランダ語を学習していきます。その中のエピソードです。玄白は「フルヘッヘンド」という言葉の意味が知りたいと思います。

 

又、ある日、鼻の所にて、「フルヘツヘンド、せし物あり」とあるに至りしに、此語分らず。是はいかなる事にてあるべきと考合しに、いかにともせん様(やう)なし【どうとも分からなかった】。

其頃はウヲールデンブック【辞書?】といふものもなし。よふやく【ようやく】長崎より良澤【玄白の仕事仲間が】求め帰りし【買って帰った】簡略なる一小冊【簡単な辞書】ありし【あったのを】を【玄白が】見合たるに、フルヘツヘンドの釈註【説明】(しやくちゆう)に、

 

【辞書の説明】「木の枝を断チ去れば其迹(〈アト〉)フルヘツヘンドを為(な)し【フルヘッヘンドしていて】、
又、庭を掃除すれば、其塵土(ぢんど)聚(あつま)り、フルヘーヘンド」すといふ様に読出(よみいだ)せり【読めた】。

 

【玄白達は】これはいかなる意義なるべしと、又、例のごとくこじつけ考ひ合(あ)フに、辨(わきま)へかねたり【分からなかった】。時に、翁【玄白】思ふに、

 

「木の枝を断りたる跡(あと)【その枝の傷が】愈(いゆ)れば堆(うづたか)くなり【盛り上がってきて】、
又、掃除して塵土(ぢんど)あつまれば、これもうづたかくなるなり。
鼻は面中にありて、堆起(たいき)せるのなれば、
「フルヘーヘンド」は堆(〈ウヅタカシ〉)といふ事なるべし。しかれば、此語は堆(うづたかし)と訳しては如何」と【玄白が】いひければ、各(おのおの)【仕事仲間】これを聞(て、

 

「甚(はなはだ)尤(もつとも)なり。堆(うづたかし)と釈さば、正当すべし」と決定せり。其時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心
地せり。如此事にて、推(おし)て訳語を定めり。

 

とあります。苦労して長崎から買ってきた辞書にも「フルヘッヘンド」に対するわずかな説明しかありません。もちろん日本語では意味が書いていません。そこで、「鼻、木を切った跡、掃除をした後」という共通点から「推し量り」、「堆(うづたかし)」という訳を導き出します。

 

このエピソードを読んで、これくらい体当たりで知らないことに向き合ったことが何度あっただろう、ということを考えました。今ではたくさんの辞書がありますがそれすら引かず、日ごろの簡単な調べ物はネットで済ませてしまうこともあるくらいです。しかしそれらは誰かが整備してくれた道でしかないのかもしれないと思いました。そこから得られる感動は、この玄白の感動と比べてどうなのだろうか、と思います。玄白も今生きていたら辞書を引くに違いないとは思いますが、そうしたらきっとその先の楽しいところに行くのではないでしょうか。簡単に調べられることや本やネットに書いてあることは誰かが通ってきた道にしかすぎず、その舗装された道はどんどんと延びていきます。早くその限界の所に行きついて、「フルヘッヘンドフルヘッヘンド」とつぶやきながら鼻を見たり庭先をうろうろしたりしたいと思いました。その先に、もっと楽しいことが待っているのではないか、そう思いました。