国語のゲームブック(『プルーストとイカー読書は脳をどのように変えるのか?』より)

メアリアン・ウルフ『プルーストイカー読書は脳をどのように変えるのか?』(小林淳子訳、インターシフト、2008年)という本の中で、「マタイ効果」という言葉が出てきました。


「読字学者キース・スタノヴィッチは、豊かな者はいっそう豊かになり、貧しいものはいっそう貧しくなるという、読字発達と語彙の建設的にも破壊的にもなりうる関係を説明するのに、聖書から借用した「マタイ効果」(訳注:新約聖書『マタイによる福音書』第十三章十二節―おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう―)と言う表現を使った。」


私に要約すると、語彙が発達した子供はその知識をもとに更に多くの語彙知識や文法知識を獲得していくのに対し、発達していない子供は語彙が発達しない、というようなことらしいです。


読んでいて、国語の集団授業ってたしかにそのような側面があるのではないかと思いました。分かる人はどんどんと知識を獲得していきますが、分からない人は分からないことで更に分からなくなる。


漫画『ブルーロック』にフローという考え方が出てきました。自分よりあまりにレベルの高い挑戦には不安になり、自分より少しレベルの高い挑戦には熱中できる、という考え方です。


注意したいのは、国語の場合、成長が不可逆的なところがあるような気がする点です。かくし絵で一度隠された絵柄を見つけたら見つけられなかった時には(すぐには)戻れなくなるように、文章は一度文意を理解したら、理解できなくなった状態には戻りにくくなるというか、その時のことを忘れてしまいがちになるように思います。仮名文字の読み方を再び説明されても退屈なように、もう分っている部分の説明が退屈になりやすいのではないでしょうか。「分からないなあ」という生徒と、「退屈だなあ」と思っている生徒の間に、有意義な時間を過ごせている生徒がいるように思います。

 

教師の困難としては、自分が「分からなかったところ、つまずいたところ」を思い出さなければならない点がまずあります。そして、教室の中にもいろいろな生徒がいて、どこを説明しても全体が有益な時間を送るという事は難しいという点にあります。しかも国語の場合は教材によっても分かるものと分からないものがありえます。生徒の理解力を診断することも、安易には行えません。


以上の事を考えたときに、果たして一対多という集団授業が生徒の読解力を向上させるのに適しているのか?という疑問が浮かびました。退屈させない授業のためには一対一の方が望ましいのではないか、と疑問に思いました。しかし、コストの問題があります。


そのようなことを考えたときに、子供の頃にゲームブックにはまっていたことを思い出しました。ゲームブックは、ページごとに課題が書いてあって、その課題を成功したら10ページへ、失敗したら7ページへ」という風にページをめくっていき、ゴールを目指すという本です。


例えば国語の問題で、漢字の読み方とか、言葉の意味とか、指示語の意味とか、主語が誰かとかの基本的な問題を次々に書きだしていきます。他にもキーワードは何かとか、筆者が何と何を比較しているかなどの問題を書きだしていきます。そしてどんどんとレベル別に並べて行って、最後は他の文献と比較した4000字の論考(『暗殺教室』の言う「問(もん)スター」のような問題)まで、基本的な問題から発展的な問題まで取り揃えます。問題間のフローチャートを作り、間違えたら基本的な事項に戻れるようにします。国語の問題なのですから、面白いストーリーがついていてもいい。そういうゲームブックを作り、生徒に配布し、解いてもらうという方法があるのではないか、と思いました。それなら、大半の生徒は自分より少しレベルの高い問題を発見し、取り組むことが出来るのではないでしょうか。


問題としては、生徒同士が孤独な作業になるかもしれないという点と、教材作成が大変と言う問題があります。製本の問題もありますが、今の時代ならデータで配布と言う手もあるかもしれません。また、複数の教師がチームで教材を作り、現場がそれを使うという方法もあります。現場の先生はスケジュールを組んで、生徒と対面で一緒に問題に取り組み、アドバイスをしていく。それなら学生のアルバイトも使って人数を増やして行うこともできるかもしれません。


問題は色々あると思うのですが、今度試作してみたいと思いました。