遠のく奇跡と変わる現実(『日本書紀 下』より)

昨日の歩数は9668歩でした。今日は日本古典文学大系68番の『日本書紀 下』を読みます。


聖徳太子の説話が目に留まりました。『日本書紀』の推古天皇の条の中には、いくつも有名なエピソードが書いてあります。

 

皇后【聖徳太子の母】、懷姙開胎(みこあれま)さむとする日【出産しようとする日】に、【皇后は】禁中【天皇の住まい】(みやのうち)に巡行(おはしま)して、【皇后は】諸司(つかさつかさ)を監察(み)たまふ【視察してまわった】。


【皇后は】馬官【馬を育てる職】(うまのつかさ)に至(いた)りたまひて、乃(すなは)ち廐(うまや)【馬を育てるところ】の戸に當(あた)りて、【皇后は】勞(なや)みたまはずして忽(たちまち)に産(あ)れませり【出産した】。


【その生まれた子(聖徳太子)】生(あ)れましながら能(よ)く言(ものい)ふ。聖(ひじり)の智(さとり)有り。


壯(をとこさかり)【青年になると】に及(およ)びて、一(ひとたび)に十人の訴(うたへ)を聞きたまひて、失(あやま)ちたまはずして能(よ)く辨(わきま)へたまふ。兼(か)ねて未然(ゆくさきのこと)を知ろしめす。且(また)、内教(ほとけのみのり)【仏教】を高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)に習ひ、外典(とつふみ)【儒教の経典】を博士(はかせ)覺哿【すみませんよくわかりません】(かくか)に學(まな)びたまふ。【聖徳太子は】並(ならび)に悉(ことごとく)に達(さと)りたまひぬ。


父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿(かみつみや)に居(はべ)らしめたまふ。故(かれ)、其の名を稱(たた)へて、上宮廐戸豐聰耳太子(かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ)と謂(まう)す。

 

馬房で出産した、生まれながらに良く話す、一度に十人の話を聞く、すぐに難解な書物を理解していく…改めて読むとすごいと思います。『日本書紀』には他にも十七条の憲法も載っています。

 

しかし、すごいことは分かるのですが、いまいちどうすごいのか説明しにくいなあと思ったエピソードもあります。

 

聖徳太子が片岡山という場所(奈良県の葛城のあたりと言われています。)で、飢えた旅人に出会うという話です。

 

まず、飢えた旅人を想像することが、私には少し難しいというのが本音です。私自身は生活の中で、本当に飢えたという経験はありません。外食は贅沢なので家で白ご飯に天かすをかけ、醬油を垂らして食べることが出来ます。気が向けばラーメンか、ラーメンは高いにしてもコンビニでブラックサンダーを食べることも出来ます。正直に言って、飢えた旅人という状況を想像するには、私は恵まれているように思います。このような話を偉そうに紹介することは本来できないことかもしれません。古典を読むときに「生活様式の違い」が難しいと思うのですが、このような現実は今もどこかで起っていることかもしれません。そのような出来事の存在を認識しなければならないような気が、読んでいて起こりました。


話がそれましたが、聖徳太子は片岡山で飢えた旅人に出会うという場面です。聖徳太子はその旅人を哀れみ、飲食物や衣を与えて歌を詠みます。

 

十二月の庚午(かのえうま)の朔(ついたちのひ)【日付】に、皇太子(ひつぎのみこ)【聖徳太子】、片岡に遊行(い)でます。時に飢者【飢えた人】、道(みち)の垂(ほとり)に臥(こや)せり。

 

仍(よ)りて【皇太子たちは】【飢えた人の】姓名(かばねな)を問ひたまふ。而(しか)るに【しかし飢えた人は】言(まう)さず【名前を言わなかった】。皇太子、視(みそなは)して飮食(をしもの)【食べ物と飲み物】與(あた)へたまふ【飢えた人に与えた】。即(すなは)ち【皇太子は】衣裳(みけし)を脱きたまひて、飢者に覆(おほ)ひて言(のたま)はく【言う事には】、「安(やすら)に臥せれ」とのたまふ。則(すなは)ち【皇太子は】歌(うた)ひて曰(のたま)はく、

 

しなてる【枕詞】 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人あはれ
親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや【親無しで育ったのか】
さす竹の【枕詞】 君(きみ)はや無き【優しい恋人はいないのか】
飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人あはれ

とのたまふ。

 

「親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君(きみ)はや無き」と旅人の境遇を思いやる聖徳太子の言葉は、実際の状況を克明に想像することはできませんけれども、それでも聞いていてしみじみとしてしまいます。言葉の力というやつでしょうか。


しかし、この話には後日談があります。実は聖徳太子が出会った旅人は、ただの人では無かった、という内容です。

 

辛未(かのとのひつじのひ)に【後日】、皇太子、使(つかひ)を遣(つかは)して飢者(うゑたるひと)を視(み)しめたまふ【様子を尋ねさせた】。使者(つかひ)、還(かへ)り來て曰(まう)さく【いう事には】、「飢者、既(すで)に死(みまか)りぬ」とまうす。

 

爰(ここ)に皇太子、大きに悲びたまふ。則ち因りて當(そ)の處(ところ)に葬(をさ)め埋(うづ)ましむ【旅人を埋葬させた】。墓(つか)固封む【口を固くふさいでいた】。

 

數日之後、皇太子、近く習(つかへまつ)る者(ひと)を召して、謂(かた)りて曰はく【側近に言うことには】、


聖徳太子の言葉】「先の日に道に臥して飢者、其(そ)れ凡人(ただひと)に非(あら)じ【ただの人ではないだろう】。必ず眞人(ひじり)【仙人、が近い】ならむ」と
のたまひて、使を遣して視しむ【使いに様子を見させた】。是(ここ)に、使者(つかひ)、還り來て曰さく、


【使いの報告】「墓所(つかどころ)に到りて視れば、封(かた)め埋(うづ)みしところ動(うご)かず【入口の封はされていた】。乃(すなは)ち【封を】開きて見れば、【旅人の】屍骨(かばね)既(すで)に空(むな)しくなりたり【遺体は既に消えていた】。唯(ただ)【聖徳太子が貸した】衣服をのみ疊(たた)みて棺の上に置(お)けり【置いていた】」とまうす。是(ここ)に、皇太子、【報告を聞いて】復(また)使者を【片岡山へ】返(かへ)して、其(そ)の衣を取らしめたまふ【衣を取らせてきた】。常の如く【いつもどおり】且(また)服(たてまつ)る【その服を着た】。

 

【時の人の驚き】時の人、大きに異(あやし)びて曰はく【いう事には】、「聖(ひじり)の聖を知ること【聖人は聖人を知るという事】、其れ實(まこと)なるかな【本当なんだなあ】」といひて、逾(いよいよ)惶(かしこま)る。

 

飢えた旅人は実は仙人というか、聖人というか…とにかく特別な人だったのです。そしてその遺体は墓から忽然と消えて、着物だけがたたんで置いてありました。誰がその衣をたたんだのでしょう…そして聖徳太子はそれを見抜いていたということが、更に太子の評判を高める。そういうお話だったかと思います。

 

この話を読んでいて、まず私は素直に「太子はすごいなあ」と思いました。それと同時に、「遺体が消える」なんてマジックみたいだなあと思いました。私には、「遺体が消える」ことがどのような意味を持つのか、何故すごいのか、明確に説明することが出来ませんでした。


もちろん、すごいことは分かります。口を封じていた墓から遺体が消え、着物が畳んであった。理屈で考えてすごいことが起きています。だから、マジックみたいだなと。
私は今まで火葬の文化で育っています。その私にとって、遺体が消えるということがどのような価値を持つのか、必ずしも分かりやすいものとは言えないみたいです。


同じような感覚を『カラマーゾフの兄弟』でも感じたことがあります。ゾシマ長老という偉大な聖職者の遺体が腐り、その弟子であり主人公のアリョーシャが動揺するという場面があります。複雑な心なのでなかなかうまく説明が出来ませんが、偉大な聖職者の遺体には奇跡が起こるはずで、遺体が腐るということはあり得ないという「迷信」が、動揺を与えたという説明が、一応は与えられるかと思います。そして、その「奇跡」がどのような価値を持つのか、私にはよく分かりませんでした。

 

日本書紀』のこの場面の場合は、「遺体が土の中で腐っているはず」という現実に対し、「遺体が消える」という奇跡が起こります。それに対して『カラマーゾフの兄弟』の中では「奇跡が起きるはず」という期待に対し、「遺体が腐る」という現実が起きます。


ただし『カラマーゾフの兄弟』の場合は、その奇跡は「ありえない」という考えも示されます。ラキーチンという人物の台詞に、「呆れたもんだ、この節では十三歳の中学生だってそんなことは信じちゃいないぜ」というようなセリフも出てきます。(原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(中)新潮文庫、昭和53年より引用)『カラマーゾフの兄弟』では、ラキーチンの頭の中では、理想(それがどのような理想かわかりませんが)は現実に追いやられているようです。私の頭の中でも、知らず知らず同じことが起こっているのかもしれません。しかし、その「現実」もまた、すごいスピードで変わっていきます。「飢えた旅人」がどのような思いを持っていたか考えることは容易ではありません。また、奇跡に驚いた聖徳太子の周りの人や、現実に失望?したアリョーシャの驚きを知ることも、また容易ではないなあと思いました。