因果ってなんだろう?(『日本霊異記』より)

昨日の歩数が4470歩だったので(ガラケーが教えてくれました)今日は岩波書店日本古典文学大系」70番の『日本霊異記』です。帯には「古代の民衆の哀歓を生々と語る百十余の多彩な説話群!」とあります。平安初期の仏教説話集です。今日はその上巻を読みます。

 

読んでいくと、「こうしたら、こうなった」という話が結構登場します。いくつか挙げると…


・前世で法華経の一字を燃やしてしまった→その字が覚えられない(縁第十八)
・馬に重い荷物を持たせて酷使した→両目が釜に煮られた(縁第二十一)
・親が借りたものを返さないので、それを責めて孝行しなかった→倉が燃えて飢えて死んだ(縁第二十三)

 

これらの話は大体最後に、なぜこのようなことが起こったか説明があります。

ケース1:前世で法華経の一字を燃やしてしまった→その字が覚えられない(縁第十八)

教訓「誠に知る、法花の威神【法華経尊いこと】、觀音の驗力なること【観音の力】を【知る】。善惡因果經【経典の名前】に云はく「過去の因【原因】を知らむと欲(おも)はば【知りたければ】、其の現在の果【結果】を見よ。未來の報【報い】を知らむと欲(おも)はば、其の現在の業【所業】を見よ」といふは、其れ斯(こ)れ【前世で法華経の一字を燃やしてしまった結果、一字を覚えられなかったこと】を謂ふなり。

 

ケース2:馬に重い荷物を持たせて酷使した→両目が釜に煮られた(縁第二十一)

教訓「現報【悪行に対する報いは】甚だ近し【すぐに起こる】。因果を信(う)く應(べ)し。【何かを】畜生【獣など】と見ると雖も【一見そうだがそれは】、我が過去の父母なり【前世の父母の転生したものである】。六道四生【仏教用語。(「人以外の世界も」のような感じ?)】は、我が生まるる家なるが故に【来世で自分が生まれるところだから】、慈悲无くある可(べ)から不(ざ)るなり。【慈悲をもって接さないといけない。】」

 

ケース3:親が借りたものを返さないので、それを責めて孝行しなかった→倉が燃えて飢えて死んだ(縁第二十三)
教訓「所以(このゆえ)に、経に云はく【経典のいう事には】「不孝の衆生【親孝行しない人】は、必ず地獄に墮ち、父母に孝養【親孝行】すれば、淨土に往生す【極楽浄土に行ける】」といふ。是(こ)れ、如來【仏陀】の説く所、大乘【大乗仏教】の誠の言なり。」

 

読んでいて、最近流行っている『呪術廻戦』の「因果は全自動ではない」という台詞が浮かびました。それは、悪いことするやつが自動的にひどい目にあうわけではないから、自分たち(呪術師)がその代行をしなければならないという文脈だったと思います。それに対して『日本霊異記』は、仏さまがすべて見ていて、悪いことをしたら自動的に懲らしめられる、というように書いてあるような気がします。この二つの違いは何でしょうか。

 

例えば、昔の時代劇とかは(あまりまだ見れてませんが)いわゆる勧善懲悪の構図になっていることが多いと聞きます。漫画だと『ワンピース』とかもそんな感じでしょうか。

 

それに対して例えば『チェンソーマン』とかって誰が正しいんでしょう。『鬼滅の刃』だって、鬼の方にも事情というかドラマがあって、そこが面白かったように思います。『呪術廻戦』もそうです。『ドラゴンボール』とか『ワンピース』より、「勝っても」すっきりしないというか…。『日本霊異記』の上にあげた話のような(そうでない話もあるかもしれませんが)「因果は全自動。悪いものは悪い。」という考えに対して、「そうはいっても仕方ないというか、事情があるよね」という考えも、生まれるものなのだと思いました。

 

一元的な勧善懲悪に対する多様な価値観の提示という現象はもっと前にも見られます。

日本霊異記』縁第十一に、幼い時から漁をしていた人が、体が焼けるような妄想にとらわれ、出家をするという話があります。漁は生き物を殺すことですから、罪深いと考えられて、その罪で体が燃えるような幻覚を見る、というような話です。それに対して室町時代謡曲『善知鳥』(「うとう」と読みます)にはこんな一節があります。

 

「とても渡世を営まば【世渡りをすれば】、士農工商【殺生をしなくていい身分】の家にも生まれず【家に生まれたら殺生をせずに済んだのにそうではなく】、または琴棋書画【風雅な遊び】を嗜む身ともならず、ただ明けても暮れても殺生を営み…」(日本古典文学大系謡曲集上』より引用)

 

私は魚が大好きですし、漁をしてくださる方を罪深いとは思いません。肉も好きで、猟師の方も罪深いとも思いません。そうではなく、この話のポイントは、『日本霊異記』では漁師側の言い分が聞けないのに対して、『善知鳥』では、そういう家に生まれたのだから、生きていくには猟をするしかなかったという風に言っているという点です。

 

そういう話を読んで思うことは、『チェンソーマン』でも『呪術廻戦』でもそうですが、価値観が戦った時、どちらかが勝ちどちらかが負けることはあっても、負けた側が「自分が悪いから負けた」と思うことはない、ということです。実は主人公の方が負けることだってありえて、ただどちらかが「なんとなく」勝っているだけという場合も少なくないのではないでしょうか。主人公が勝つ必然性は実は無くて、だから全自動ではない。(『善知鳥』の場合は、主人公は後悔をするのですが…)

 

考え方が違う人は、その価値観自体が違う可能性があります。そうした時にこうした話を考えますと、価値観の優劣は実は分かりにくいというか、自明ではないように思います。それを自覚しながら、妥協点を見つけていかなければいけないんだろうなあ、と思いました。もちろん、戦わないで済むのならそれが一番いいのですが…。

 

しかし、もしどちらかの価値観が「正しい」と知っているものがいらっしゃるとすれば…それは「神様」か「仏様」で、だとすると『日本霊異記』的な世界になるんだろうなあ、と思いました。