論理を越える「芸の力」(『謡曲集上』より)

昨日の歩数は16842歩でした。今日は「日本古典文学大系」42番の『謡曲集上』から狂言「末広がり」を読みます。帯には「簡素雄勁な演技による、古雅な笑いの舞台芸術!」とあります。狂言は中世の舞台芸術です。

 

時:中世

登場人物:果報者(主人)、太郎冠者(主人のお使い)、詐欺師

です。

 

果報者という人(主人)が来客への贈り物が欲しいからと言って、太郎冠者(お使い)に「末広がり」を買ってくるようにとお使いに出します。しかし、太郎冠者は「末広がり」が何かわかっていません。そこで主人が「末広がり」を説明します。

「末広がり」とは何でしょうか。果報者の注文内容を聞いて想像してみてください。

 

「まず第一 地紙(じかみ)よう【良く】、骨にみがきをあて、かなめもと しっととして【しっかりして】、ざれ絵【おもしろい絵】ざっとした【さらっとしたもの】を求めてこい。」

 

分かりましたでしょうか。かなりアバウトな注文です。狂言は口語(昔の話ことば)で書かれていて、「良く」が「よう」になっています(ウ音便)。そして「しっとと」とか「ざっと」とか、「音が面白い」形容詞が良く出て来る印象です。

 

少し脱線しましたが、「末広がり」とは扇の一種で、先が広がった扇の事を言います。扇は紙を使いますが、その紙が良いものを指定しています。また扇の要もしっかりしたものを求めています。扇には絵が描いてありますが、「ざれ絵」が描かれてあるものと絵柄を指定してます。扇を使う機会は現代ではあまりないので、イメージが付きにくいところがあるかもしれません。古典を読むときに、生活様式の違いがある時が少し難儀するところになるかもしれません。

 

さて、「末広がり」のあらすじに戻ります。太郎冠者は果報者が言う特徴を頼りに、「末広がり(先の広がった扇)」を町に買いに行きます。そこに、おろおろする太郎冠者に目を付けた詐欺師が現れます。詐欺師は太郎冠者をうまくだまして、手持ちの「傘」を高値で買わせようとします。


詐欺師 【閉じた傘を見せ】これが末広がりでおりゃる【ございます】。

太郎冠者これへ【私に】下されい【ください】。

詐欺師心得た。

太郎冠者【傘を見て】ハハアこれが末広がりでござるか。

詐欺師不審 もっともな【疑問はもっともです】。ただいま末広がりに成(な)いて【成りて】見しょう。これへ【こちらへ】おこさしめ【貸してください】。

太郎冠者心得ました。

詐欺師【傘を広げながら】ソリャソリャ、ソリャソリャソリャ。何と末廣がりになったではないか。

太郎冠者まことに末広がりになりました。それに ちと好み【主人が言いつけた条件】がござる。

詐欺師それはいかようなお好みじゃ。

太郎冠者【主人が付けた条件を言う】まず第一地紙よう、骨にみがきをあて、かなめもとしっととして、ざれ絵ざっと致いたを求めとうござる。

詐欺師これはむつかしいお好みじゃ。さりながらお好みも、ことごとく合(お)うておりゃる。

まず第一 地紙ようとはこの紙のこと。よい天気に、よい紙をもって張ったによって、はじけばこのごとく、こんこん致(ニた)す。

また骨にみがきをあててというも、この骨。ものの上手(じヨうず)がとくさ・むくの葉をもって、七日七夜(なぬかななよ)みがいたによって、撫(な)ずればこのごとく、すべすべ致す。

またかなめもとしっととしてというも、このかなめのこと。これをこう致いて、いずかたまで持って參っても、ゆっすりとも致さぬ。またざれ繪というは、そなたのおしゃりようが悪(あ)しい。いずかたへ御進上(ごしんじヨう)なさるる【人にあげる】とあっても、この柄(え)でざれて【ふざけて】つかわさるるによってのざれ柄、かまえて絵のことではおりないぞ。


「末広がり」という名前には、傘も先が広がり「末広がり」になると答えています。地紙が良いという条件には、この傘も地紙がいいと答えています。要が良いという条件には、傘の骨が良い骨を使っていると答えています。ざれ絵が描いてあるという条件には、傘の「柄」でふざけるから「ざれ柄」と言うのだ、だからこの傘でいいのだ、と答えています。けっこう理屈っぽいですね。今でも勘違いは良くコントのネタになりますが、昔から勘違いは笑いの種だったのでしょうか。

 

結局太郎冠者はまんまと騙されて傘を買い、果報者に渡します。「ざれ絵」の言い訳は結構強引だったと思うのですが…見ている観客は面白いのですが、果報者はそうではありません。扇を注文したのに間違えて傘を買ってきてしまった太郎冠者に怒りだしてしまいます。しかし、太郎冠者には奥の手がありました。実は詐欺師から、ご主人の御機嫌を損ねたときの対策を教わっていたのです。(詐欺師のアフターサービスでしょうか。どんなアフターサービスだ)

 


詐欺師 その【ご主人の】御機嫌の悪しい時、御機嫌の直(なお)る 囃子物(はやしもの)がある。それを【太郎冠者に】教えておまそうかということじゃ。

太郎冠者それはかたじけのうござる。習(なろ)うて成ることならば教えて下されい。詐欺師別にむつかしいことでもおりない。「かさをさすなる春日山(かすがやま)、これも神の誓いとて、人がかさをさすなら、我(われ)もかさをさそうよ。げにもさあり、やようがりもそうよの」、という分(ぶん)のことでおりゃる。

 

詐欺師は囃子(音楽)に合わせ、「かさをさすなる春日山(かすがやま)、これも神の誓いとて、人がかさをさすなら、我(われ)もかさをさそうよ。げにもさあり、やようがりもそうよの」と唱えて舞を舞うという芸を太郎冠者に教えます。この言葉の意味はよく分かりません。「げにもさあり、やようがりもそうよの」というのは囃子の伴奏に合わせて言う言葉です。(よっ、大統領の「よっ」とかと同じ)太郎冠者は教えられた通りに、呪文のようにこの言葉を唱え、傘を広げさしながら、足で拍子を取り何度も歌います。すると…

 

果報者 いかにやいかに太郎冠者、たらされた【だまされたのは】は憎けれど、囃子物が面白い。

 

と言って、果報者は笑顔で太郎冠者を許します。先ほどの勘違いが面白いのは、果報者の言いつけを詐欺師が自分に都合のいいように解釈しなおしていくという「論理」の面白さでした。しかし後半は、なにかその失敗を取り繕う「論理」はありません。太郎冠者は囃子物の力で果報者の機嫌を直します。そこには「勘違いで買い間違えた」という「現実」とか「論理」を、「芸の力」が乗り越える瞬間があるのではないでしょうか。傘を買ってきても現実には役には立たないけれども、それはそれとして歌と踊りは面白い。歌の内容も分かりにくいけれども、それでも面白い。そういう「論理」とか「現実」を忘れる瞬間がここにはあるのかもしれません。

全然スケールが違うかもしれませんが、最近のご時世にもこういうことは言えるのではないでしょうか。現実はなかなか変わりませんが、芸の力にはそれを「超える」というか、「忘れさせる」瞬間があります。それが何の役に立つのかと言われるかもしれませんが、それを一瞬忘れることが出来るだけでも、価値のある事ではないでしょうか。そういう意図が「末広がり」にあるのかはわかりませんが、最近の御時勢を見ていると、そういう「きれいごと」を、狂言「末広がり」から考えさせられました。