雪について書き続けたらどうなるのだろう(森重敏著『日本文法通論』 からの余滴)

大学一年生の頃、雪について考え続けたときがありました。私の住んでいる地域にはあまり雪が降っていなかったのですが、その時には久しぶりに雪が降りました。当時はまだレインブーツを持って居ませんでしたので、「雪って意外と靴が濡れるんだなあ、まだ1時間目なのになあ、寒いなあ」と思っていたことを思い出します。

 講義を受けながらふと窓の外を見ますと、雪が降っているのが見えました。その雪の落ち方を見ていますと、あっちへ行こうとするかと思えばふと向きを変えて、そんな不安定な物体が無数に落ちてきて、一瞬のうちに限られた窓枠を通り抜けていきました。それらを見ていますと、ふと、「あの雪を完全に記述できるのだろうか」と思ったことを思い出します。

 そのための方法はこうです。日本語には前の文章が後の文章を制約するというようなことは基本的には無いため、いくらでも文章を書き連ねる事が(原理的には)できます。そうであるとすれば、雪に関する特徴を(原理的には)無限に書き連ねていくことが出来ます。「雪は白い」「冷たい」「軽くて、空気の流れに従って静かに落ちて行く」「落ちていく時に音がしない」「結晶の形にはいろいろな種類があるらしい」「遠くの山を白く縁どっている」などです。このようにして思いつく限りのことをパソコンに打ち込んでいきます。そしてそれを繰り返して、何万字も何万字も打ち込んでいくとどうなるのか、と思ったのです。もしかするとその中には、私の頭の中の雪が現れてくれるかもしれないと、そう思ったのです。

 実際にその方法を行ったのかどうか、あまり詳しく覚えておりません。ちょっと前に書き出してみた感じからすると、おそらく一ページかそこらで筆が止まり、やめてしまったのではないでしょうか。頭の中から言葉を紡いでいくと、頭の中は空っぽになっていく感触があります。そうすると今度は、目の前の紙に書かれている事や、今までの紙の中に書かれていることを再び読み返して、そこからまた頭の中で言葉を組み立て始めます。しばらくするとまた書き出すことが出来るのですが、そうするとまた頭の中が空っぽになります。あてもなく文章を書くというこの行為が、私は好きです。「雪の事だけを書き続けたらどこに行くのだろうか」と昔思ったようなことは、なかなかできませんが、少しずつ、少しずつ、書き続けていけたらいいとそう思っております。

傷つけられたときの対策 

こんにちは。


人との関わりは大切ですが、うっかり関わると相手の言葉に傷つけられることがあります。(自分の言葉が相手を傷つけることがあります。)私は、思い出すたびにいらっとして、どうしようもない気分になる時があります。そういう時って、皆さんは何をされているでしょうか。


言葉で傷つけられるという事は、どういうことなのでしょうか。


①まず、相手が同じコミュニケーションの場所にいる状態で、相手から言葉が発せられます。それを聞いて、自分の中で解釈をして、そして傷つきます。
②次に、相手がいない状態でその言葉を思い出し、傷つきます。それが記憶が続く限り起こります。

 

こうしてみると、①と②の間には違いがあります。①は生身の相手が言葉の向かいにいますが、②は自分の頭の中の相手が問題になっています。もっと言うと、それを思い出させる言葉に結び付いた記憶が問題になっています。

これは自分の中の話ですが、①と②は同じくらい心に来ます。けっして②の方が軽いとか、そういうことはありません。問題はそこです。

①はもう、生きていたら人と人との摩擦が起こることはもう、どうしようもないことでしょう。しかし、②が起こる事態は避けなければいけません。言葉を発する時は、常に相手の中の②を考えて生きて行かないといけないのでしょう。

 

そして、②の状態になった人は何をすればいいか、についての私見を述べたいと思います。重ねて述べますが、②で問題になっているのは生身の相手ではなく、記憶と言葉です。自分の中で言葉が呼び覚ますもの(いいものとわるいものがあります)を今回は言霊と呼ぶことにします。すると、その言霊をリセットすることが必要になるのではないでしょうか。それを今回は言霊リセットと名付けます。(まんまです。)

 

言霊リセットの方法ですが、とにかく言われた事とは別の方向の、自分の好きな言葉を頭に入れていくという方法が良いかと思います。本を読むのもいいですし、声を出して詩を朗読するのもいいです。受けた言霊の力が強かったときは絵が付いている漫画を見てもいいでしょう。映像作品もいいでしょう。曲のようにメロディーがついているものも頭に入りやすいかと思います。文学作品の中には、言霊が保存されています。その言霊を呼びさまし、ダウンロードすることで、悪い言霊を追い出そうと試みてみてはいかがでしょうか。

繰り返しですが、日常生活は常に変わっていきますが、言霊は作品の中に保存されています。自分の中で暴れている悪い言霊を追い出す、いい言霊を持つものを手元に置いていることで、言葉の暴力の力を少しでも和らげてみてはいかがかと、そう思いました。

アニメ『平家物語』が面白かった。(第1話の感想)

タイトルのまんまの感想です。
アニメ『平家物語』が始まりました。楽しみでした。そして実際に第一話を見てみました。面白かったです。面白かった点を二点挙げます。

 

1声とアニメーション
 アニメーションを見て、声と絵がいいなあ、と思いました。当たり前すぎる感想です。文字で書かれた『平家物語』を読む時の感覚と比較して気づいた点を挙げます。
 文字を読む時は自分の頭の中で自分の声を再生します。それも『平家物語』の場合、古文を再生することになります。
 それに対してアニメーションの場合、現代文で、しかも声優さんの声で再生されます。自分で読む時よりも、正直、面白い。(脱帽です)それに加えて絵が付きます。分かりやすい。(綺麗です。)見ているだけで楽しい。
 例えば宴会の場面など、席の配置などの雰囲気はどうしても本からは伝わりません。(一応本によっては後ろに図が付いていたりしますが)また自然物に寓意が持たれる時がありますが、その自然物に日ごろから親しんでいないと、本を読んでいてもいまいちイメージが出来ません。それで画像を検索したり、実際に見に行ったりするのですが、アニメーションだと絵だけで説得力があります。(沙羅双樹の花は綺麗でしたね)

 

2原文の取り入れ方
 原文を、筑前琵琶の語りのように節をつけて読んでいました。ここにとても感心しました。
 第一に良いと思った点は、場面の選び方です。『平家物語』を読んでいて正直、面白いと思う部分(エピソード)と、それ以外の部分(名前を羅列していくところなど)があるように、正直、若干、感じなくもないところがあります。なのでまずは抜粋して読むのが良いかと思っていましたが、このアニメの場合は自然にそれが出来ています。原文に触れてもらえるのがうれしいところもあります。
 第二に、それに節(メロディー)と琵琶の伴奏、そして絵が付いているのが良いです。筑前琵琶など、琵琶の語りは現在も聞くことが出来ます。それもとても良いのですが、正直話を分かっていないとしんどい部分があります。メロディーが付くことで言葉が聞きにくくなり、また全体像が分からないことで不安になります。しかしこのアニメの場合は絵が付くので、その心配が要りません。そして原文の部分が短い。初めて『平家物語』に触れる時には、これは大事だと思われます。(とくに最近は)

 

以上、とりとめのない第一話の感想でした。大満足です。そして新しいキャラクターの視点で書いているのもいいです。未来を見ることが出来る琵琶と、話を知っている視聴者の視点は一致するのでしょう。だからこそ感じる命の儚さを、すでに予兆として感じる、第一話でした。楽しみです。

 

言葉で相手を傷つけてしまったときに考えること

 言霊には気をつけよう、そう思ったので書きます。特にその悪い側面についてです。
 

 日常生活の中でふとした拍子に相手を言葉で傷つけてしまうことがあるかと思います。「余計なことを言ってしまった」と思うときです。その言葉がどう働くことになるか、そういう時には考えてみていいと思います。
 

 短く書くとこういうことになるかと思います。
 体験は記憶を媒介としてその言葉と結びつき、その結びつきは記憶の中で保存されます。そしてその言葉を介して記憶が復元され、記憶の中で再体験を繰り返します。
 

 たとえば話し手が聞き手に対して「うちわ」と言ったとします。その聞き手は、頭の中に「うちわ」を思い浮かべるでしょう。その時に頭に思い浮かべる「うちわ」は、話してが思い浮かべているそれと一緒でしょうか。恐らく、自分が持っている「うちわ」を思い浮かべるでしょうから、違う物になるでしょう。人によってはライブに持って行く「うちわ」を想像するかも知れません。また人によっては、夏祭りであの子と一緒に花火を見に行った時にもっていた「うちわ」を想像するかもしれません。また人によっては、嫌な記憶が「うちわ」にあるのかも知れません。「うちわ」という言葉は誰が考えても「う」と「ち」と「わ」からできていますが、その言葉が与えるイメージはこのように、時と状況によって違う物になります。

 
 ここで考えないといけないことは、「うちわ」という言葉は実際に現物が目の前に無くても使えるということです。言葉は、その人ごとの記憶と結びついており、言葉が発せられることでその記憶が呼び起こされているということになると思います。逆に言うと、言葉の中にはその人の記憶が保存されているということができます。


 その力を、言霊と呼んでもよいでしょう。
 とすると、こういうことになります。
 

 言葉で相手を傷つけることは、直接傷つけることと同じくらい重大なことです。物理的な傷は時間が経てば癒える物もありますが、記憶が残っている限り、記憶の中で何度でも人は傷つくからです。そしてその記憶を呼び覚ますのが、言葉の悪い側面の力でしょう。
 でも、言うべきことは言わないといけないと考える方もいると思います。その人を含め、次のことを意識すると良いと思います。

1相手と自分で、言葉の捉え方は違う。
2言葉は記憶と結びつき、呼び覚ます力がある。
3言葉が相手に与える力には重々気をつけなければならない。

以上です。ありがとうございました。

 

 

ガラケー生活のレビュー

こんにちは。今年ももうすぐ終わりです。

ガラケーの生活を一年送ってみましたので、その感想を書いてみようと思います。いい点悪い点、色々あるのですが今回はその中でも、良かった点を三点紹介します。

 

まず一点目として、「集中力が削がれにくい」点です。私は電車で通勤をしていて、その間は必要な本を読むことにしています。スマホだったころは漫画アプリが起動して時間を削いでいましたが、ガラケーになってからそれは減りました。

スマホは明らかにガラケーよりも便利です。小さい中に多機能が備わっています。しかしそれは同時に、集中力が分岐しやすいということでもあります。ライン一つの操作から始まり、最終的にSNSの海に溺れる、そのような経験はガラケーでは起こりません。なぜなら、アプリが入らないから。ラインの返事すらできないから。

 

二点目として、「不自由が備えを生む」という点です。ガラケーになってから逆説的に道に迷いにくくなった感じがします。これはどういうことでしょうか?まずもって説明しますと、ガラケーには地図のアプリが入っています。しかしながら、月に200メガ(ギガではなく、メガ)の契約通信料でそれを起動することはあまりに恐ろしく、私はまだ使っていません。一瞬本気で、持ち運びできるカーナビを持ち歩いてやろうかとも思いました。その話を周りにしたところ、「スマホを持てばいいじゃん」と言われました。ぐうの音も出ませんでした。


しかしながら、今のところガラケーでなんとかやれています。理由は二つあって、一つは日頃の暮らしで知らない場所に行く機会が少ないからです。(外回りなどない私の場合ですが)そしてもう一つは、「その場で調べられないから、事前にしっかりと確認しておく」癖がついたからだと思います。万能は安心を生みますが、それは時として過信につながります。GPSの矢印の向きが分からず、迷ってしまったことが何度あったことでしょう。そしてすぐに電池が切れる。それに対して、ガラケーの圧倒的な限定性は、自分への不信、ひいては危機感と準備の必要性を生みます。紙の地図を持ち歩き、付箋にルートを書き込むという行為を誘発します。余談ですが、紙の地図は色々と書き込みが出来ますし、チケットとかの挟み込みも出来るので、それなりに気に入っています。縮尺が足りなくて、二本の指でうっかりピンチアウトしてしまった、そんな経験なんて、ありません。

 

三点目。軽い。電話がしやすい。充電が三日に一度で十分。三つくらい出てきました。

 

以上が今回の分のガラケーのレビューとなります。また詳しいことは機会がありましたら。ではではー。

今週のお題「買ってよかった2021」

 

成績の「悪い」方へ・「成績」を上げる第一歩の提案

私事ですが、最近若干仕事が報われる機会がありました。その報われた知らせが来た次の瞬間に、更に仕事の続きに取り掛かろうと体が動いて、驚いたという経験をしました。

よく世間では、「打ちのめされた時にすぐに立ち上がることが本当の強さ」であると言われます。実際にそうだと思います。自分にはその強さはありません。もしあの時残念な知らせが来ていれば、きっとお酒を飲んでいたと思います。逆に言えば、報われた時の方が立ち上がりやすいような仕組みに、どうも私はなっているみたいです。皆さんはいかがでしょうか。

特に高校生なんかは、季節ごとにテストがあって、強制的に「報われる・報われない」という機会に立たされると思います。その時に報われた人は立ち上がりやすく、報われなかった人は立ち上がりにくいのであれば、モチベーションの差が生まれ、それは結局次のテストでの結果に直結するのではないでしょうか。そのような仕組みで、成績の「良い」人と「悪い」人に分かれていくのではないかと、この経験から考えました。

 

そう考えると、所謂成績の「悪い」人の方が頑張っているとすら言えそうです。

 

では、その循環から抜け出すにはどうしたらいいのでしょうか。明確な答えは私にはありません。その上で私見を述べると、「自分で自分の達成基準を考える」ことが良いのではないかと思います。テストは、相対的な基準であり、他者が立てた基準です。そこでの優劣を争うことは競争であり、競争である以上必ず勝てるとは限りません。勝った経験は祝福としてありますが、逆に負けた経験は呪いとして縛るでしょう。


そうではなくて、「自分でやりたいことを決めて、自分で計画を立てて、自分で実行した」という経験を、自分に対する報酬にするというのはいかがでしょうか。

例としては、方眼ノートにチェックボックス付きで一日の予定を書き込み、それを実行したらチェックをつけるというような報酬が考えられます。

(例)

□数学を19時から19時半まで勉強 → ☑数学を19時から19時半まで勉強

□進路の書類を書く       → ☑進路の書類を書く

 

そんな報酬は一銭にもならないように思われるかもしれませんが、そのチェックを自分でつける瞬間、「報われた」という気持ちを、少なくとも私は、意外に強く感じました。

 

委しい方法は色々と考えられますが、成績が(他人から見て)「悪い」とされた瞬間、立ちあがるハードルは更に上がりますから、まずは自分のささやかなチェックで、自分に対する報酬をあげるのは良いのではないかと、ささやかながら思ったのでした。

深層心理に本屋でアクセス。「本屋占い」のすすめ

自らの深層心理に到達する私なりの方法を発見しました。その方法を「本屋占い」と名付けましたので紹介します。
その方法は以下のようになります。

①本屋に行く。
②棚をぼんやりと見ていく。
③ぐるっと一周する。
④印象に残った、本の背表紙のタイトルを思い出す。
⑤それが、あなたが深層心理で求めていたものです。(本当か?)

以上になります。

人間、自分が気になる所に無意識に目が行ってしまうものです。そしてたくさん見た情報の内、無意識に自分の興味に従って情報を取捨選択するものでしょう。ということは、気になった本のタイトルはあなたが日頃から、意識的に、あるいは無意識のうちに気になっていた事柄と近い可能性が高いということになります。これは古典に出て来るの「辻占」という占いに近い方法です。

 

何故この占いを本屋で行うのか。そこにはきちんとしたわけがあります。それは、「その気になった本を手に取ることが出来る」ということです。本のタイトルはウィキペディアでいうところの青字のようなもので、そのタイトルを起点にして新しい情報にアクセスすることが出来ます。またその本を起点にして芋づる式に別の本にアクセスすることが出来ることもあります。ちょっとしたコツでそのようなことが出来るので、ネットで調べていただくか、また折をみてこのブログに書こうと思います。本を読む方法についてもなにかコツが分かり次第ブログに書こうと思います。

今回は「本屋占い」の紹介でした。ありがとうございました。

(追記)
私が行った時は、たしか「無理ゲー社会」とかそういうタイトルが印象に残りました。深層心理への扉をぱたんと閉めたいと思いました。この方法もほどほどにされるのが良いかと思います。