初心忘るべからず(『歌論集 能楽論集』より)

おとといの歩数は14565歩でした。今日は日本古典文学大系65番の『歌論集 能楽論集』から「花鏡」です。世阿弥能楽の役者の心得などを書いた本です。


「初心忘るべからず」という言葉を誤解していたなあ、という場面がありました。「初心を忘れてはいけないよ」の「初心」は、「物事を始めたときの気持ち」のつもりでした。そして、「始めたばかりの純粋で楽しい気持ちを忘れてはいけないよ」(続けていたらつらいこともあるけど、その時の純粋な気持ちのままでいるんだよ)という意味だと思っていました。しかし…

 

当流【世阿弥が所属する団体】に、萬能一徳(まんのういつとく)の一句あり。

初心不可忘(わするべからず)。

此句、三ケ條口伝在(あり)。

是非(ぜひの)初心不可忘。時々(じじの)初心不可忘。老後(らうごの)初心不可忘。
此三、能々(よくよく)口伝可爲(すべし)。

 


「是非(ぜひの)初心不可忘。時々(じじの)初心不可忘。老後(らうごの)初心不可忘」の三つの意味があると書いてあります。今日はその中の、「是非(ぜひの)初心不可忘」の部分を読みます。

 

一、是非(ぜひの)初心を忘るべからずとは、若年の初心を不忘(わすれず)して、身に持ちて在れば、老後にさまざまの徳あり。

 

「若い時の初心」というのは、私が思っている初心と近そうです。物事を始めたばかりの時の初心でしょうか。なぜ忘れてはいけないのでしょう。

 

「前々(ぜんぜん)の非を知るを、後々の是とす」と云り。「先車(せんしや)のくつがへす所【先人の失敗】、後車(こうしや)【のちの人】の戒め」と云々。初心を忘るゝ【ということ】は、後心をも忘るゝにてあらずや【忘れることではないだろうか】。

 

そっちか…;つД`)。どうも、始めたばかりの頃の楽しい気持ちではなさそうです。始めたばかりにやらかしたことを忘れずにいることが、初心を忘れないことだよと言っているみたいです。その目的は、「後心」を忘れないことにあります。つまり、今の自分の位置を確かめるということです。

 

劫(功)成り名遂ぐる【役者としての名声を獲得する】所は、能の上る果【上達した結果】也。上る所【自分の上達】を忘るゝは、初心へかへる心をも知らず。初心へかへる【こと】は、能の下る所【自分の芸が下がるという事】なるべし。然者(しかれば)、今の位を忘れじ【忘れない】がために、初心を忘れじ【忘れまい】と工夫する也。返々(かへすがへす)、初心を忘るれば【忘れたら】初心へかへる理(ことはり)を、能々(よくよく)工夫すべし。

 

世阿弥にとっての初心は、必ずしもいい意味ではなさそうです。下手だったころの自分。その頃の自分に対して自覚的でいなければ、自分がどういう風に上達していっているのかを知ることも出来ない。そうすると、無自覚に下手だったころの自分に戻ってしまうかもしれない。世阿弥はそう言っているような気がします。とてもストイックです。

 

初心を忘れずは【忘れなければ】、後心(ごしん)は正しかるべし【正しいだろう】。後心正しくは【正しければ】、上る所のわざ【上達した技】は、下る事あるべからず。【下手になることはないだろう】是すなはち、是非を分つ道理也。

 

 

私はよく、物事がなかなか上達しないなあ、と思うことがあります。このブログだってそうです。しかし、思いのままに書いていたら、何時か文章が上達するだろうと、そう思っていました。しかしながら、自分に対して自覚的になって、よっぽど意識しないと、いつまでも下手なままだよと、そう言われている気がします。すこし拡大解釈になりますが、逆に上達する第一歩は、自分の下手さを自覚するという点にあるのかもしれません。下手な人にかける言葉は「大丈夫、最初の楽しい気持ちを思い出して」ではなく、「始めたときと比べて君は何がうまくなった?今の君はどうなの?」という言葉の方が、相手の為になるのかもしれません。(ただし、結構きつい言葉ですので、考えてしまいますが…)幸い、現代では最初の頃の自分を残す手立てはいくらでもあります。楽しい気持ちを持ちつつも、あくまで意識的に上達していけたらいいと、そう思いました。