春はぼんやり(新古今和歌集』より)

昨日の歩数は7128歩でした。今日は日本古典文学大系28番の『新古今和歌集』を読みます。
  いま桜さきぬと見えてうす曇り 春にかすめる世のけしき哉(春歌上・式子内親王

いつも春は忙しくて、ぼんやりとしてしまいます。記憶が断片的で、妙に覚えてることが毎年二三はありますが、それがいつ、どういう状況だったかというと、説明が出来ません。
毎年、大きな桜が咲く公園に行くという行事があって、春と言えばその桜が頭に浮かびます。しかし、それは去年の桜だったか、おととしの桜だったか…それとも、ただ記憶を勝手に補完しているだけかもしれません。春はぼんやりとした季節ですが、それは私の話です。
式子内親王が「今桜が咲いたと見えて、薄曇りで、春に霞んでいる世のけしきだなあ」と詠う気持ちははっきりとは分かりません。「うす曇り」や「霞む」は春の実際の景色のことなのでしょうか。それとも、気持ちの話なのでしょうか。両方でしょうか。両方とも違うのでしょうか。
特に去年は、家に閉じこもっていたので春の景色を覚えていません。今年はぜひ、桜を見に行きたいと思います。しかしその記憶も、もしかしたらぼんやりとしたものになるかもしれません。