「待ち遠しい」が待ち遠しい(『万葉集 四』より)

昨日の歩数は11107歩でした。今日は日本古典文学大系7番の『万葉集 四』です。『万葉集』は奈良時代の歌集です。
その中で、ホトトギスを詠む歌が目につきました。

 

霍公鳥(ほととぎす)を詠む歌二首

橘は 常花(とこはな)にもが 霍公鳥 住むと來鳴(きな)かば 聞かぬ日無けむ(巻十七・三九〇九)


(橘は 常に咲く花であったらなあ。霍公鳥が そこに住もうと来て鳴いてくれたら その鳴き声を聞かない日はないだろうに)

 

珠に貫(ぬ)く 楝(あふち)を家に 植ゑたらば 山霍公鳥 離(か)れず來(こ)むかも(巻十七・三九一〇)


(球に通す 楝【植物】を家に 植えたなら 山に住む霍公鳥が 離れることなくうちに来るのかなあ)

右は、四月二日に、大伴宿禰 書持(ふみもち)、奈良の宅より兄家持に贈れり


この歌は弟の大伴宿禰書持という人が、兄の家持(やかもち)に贈ったとされる歌です。


鳥の声が聴きたい、と思ったことはありますでしょうか。私は、そういうことは殆ど意識せずに生きてきました。そして特にホトトギスの声はどんな声だったでしょうか。「常に聞きたい」とか「離れることなくあってほしい」と詠むということは、実際は少ししか聞けない鳥なのでしょうか。町で生きている私にはこのような疑問が生まれます。

 

伊藤博万葉集釈注』という注釈書には、「集中【万葉集のこと】の時鳥【ホトトギス】詠は百五十五首。それを通観するに、時鳥は立夏の日になくものとされ、また、卯の花が咲く四月一日になれば鳴くはずと期待されていたけれども、里では実際にはその声を耳にすることはできず、ほとんどの時鳥詠が、声に対する期待、願望、怨恨、または、その佳き声を聞いたとする幻想の歌になっている。」(伊藤博万葉集釈注』2005年、集英社ヘリテージシリーズより引用)とあります。どうも歌を見ていく限りではホトトギスは山に住む鳥で、人里にはなかなか来てくれないように詠まれているみたいです。また、一応夏が来たら鳴くということになっている(知識の上ではそうなっている)けれど、実際はそうではなかったみたいです。

 

なんとなく土用の丑の日を思い出しました。知識の上ではあの日にウナギを食べれるという事になってはいますが、実際に食べられることは稀です。私はもう何年もウナギにありつけていません。正直、スーパーに特設コーナーが出来なければ忘れてしまいそうです。もうすぐ節分ですが、豆ならなんとか買えるかもしれません。しかし、ウナギも食べたい…


脱線しました。私のこのような感覚に対して、ホトトギスの声を聞きたいという願いのなんと美しいことでしょう。


歌集を読んでいくと、その中の季節の移ろいを見ていくことが出来ます。不思議な万華鏡をのぞき込んでいるような気分になります。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来ます。そしてその中で人は恋をしたり、人を惜しんだりします。一度しかない光景、一度しかない心情が、言葉に移され、私たちに残されます。それを見るのがとても楽しい。

 

自分の生活を考えてみますと、私の生活の中で待ち遠しいことと言えば、好きなドラマとか、ネット漫画の更新日とか、総じて一週間単位か、長くても一か月単位のものが多いです。逆に、一年かけて楽しみな習慣と言うものは少なくなっている気がします。一週間ごとにさまざまな楽しいことが向かってきます。下手をしたら漫画アプリだと、二十三時間に一話読むことが出来ます。一週間の待ち遠しいものが、一日の待ち遠しいものに変わっています。どんどんと周期が短くなる。小さい頃はあんなに楽しみだったクリスマスとかお正月とかも、最近は静かに過ぎていく印象です。しかし、子供の頃のあの気持ちに、今戻れるでしょうか。あふれてくる刺激ではなく、素朴に心の内から湧き上がるような、「待ち遠しい」気持ちが、今は待ち遠しいかもしれません。

 

例えばふっくらした雀に会いたい。年中雀には会えますが、夏のスマートな雀も好きですが、あの愛らしいふっくらフォルムの雀には、そういえば寒い時期にしか会えないよなあ、と思いました。あとは月並みですが、桜とか紅葉とかですかねえ。

私のいとこが金木犀の咲く時期になると、「この花にお前はこれでいいのか?と言われてる気がするんだ」といつも言っていましたが、それも年に一度の楽しみ?です。

そんな待ち遠しいことを探して、町を歩いてみようかと思いました。