長い時間の話(『平安鎌倉私家集』から)

今日読むのは岩波書店日本古典文学大系」八十番の、『平安鎌倉私家集』です。
帯には「やがて新古今に結実する絢爛多彩な個人歌集の数かず!」と書いてあります。その中の「好忠集」の中にこのような歌があります。
  我見ても春はへぬるをなよ竹のそれよりさきにいくよへぬらん(春下・31)
  (自分が見始めてからですら何度も春は過ぎているのだが、竹の若い部分より先にどれくらいの節を経たのだろう。私が見始めてから先にどれくらいの世を経たのだろう。)
若い竹の先を見て、この竹はどれくらいの時間を経ているのだろう、という時の経過を感じたという内容のようです。竹の節(よ)は「世」とか「夜」と同音で、掛詞になっています。こういう例は他にもたくさんあります。
  比翼連理の言の葉もかれがれになる私語(ささめごと)の笹の一夜の契りだに名残は思ふ習ひなるに(謡曲楊貴妃』)
  (ずっと一緒にいようという言の葉も枯れ、離れ離れになってしまう語り事、(笹の一節のように短い)一夜の逢瀬でさえも名残は重く、物思いをしてしまうものなのに)
楊貴妃』も「節」と「夜」をかけ、そこに「言の葉」や「枯れ」などの縁語が加わっています。一つの言葉がずるずると別の言葉を導く感覚と言うか、昔の人の言葉のつながりへの感覚は大変興味深いです。
「好忠集」のこの歌は、『伊勢物語』や『古今集』のこの歌を意識していると言われています。
  われ見ても久しくなりぬ住の江の岸の姫松いくよへぬらん
  (自分が見てからも久しくなった住の江の「岸の姫松」はどれくらいの世を経たのだろうか。)
私の周りを見渡してみると、一番の年長者は五年間使ったiPhone6だったりします。(最近長い勤めを終えました。)これには愛着を感じるのですが、この人たちが竹や松に感じているのは、自分の人生では測りきれないほどの長い時間に対する感慨なのだと思います。こういうことは家の中ではなかなか感じることはありません。おばあちゃんの家にあった、身長を刻んだ柱とかからは感じますが。変わらないものを見て変わっていく自分を意識するという気持ちです。そして、そういう風にずっと昔の人が思っていたということを聞いて、私も同じようにしみじみしてしまいます。
感慨は言葉に残さないと消えてしまい、他の人に見られることもありません。しかし、言葉に残った感慨は新しい感慨の種になります。今ではツイッターとかで、同じ時間を生きている人たちのたくさんの感慨に触れることが出来ます。しかしこういう風に残された言葉を読むと、ずっと昔の人の感慨に触れることもできます。すごい時代に生まれたものです。

 今回はとりあえずこの感慨を書いておきます。